サーフィンマガジン2014年1月号Jon Pyzelより

ジョン・パイゼル物語

いまや世界のサーフィン界から注目を浴びるジョン・パイゼル。21世紀になってもなおハンドシェープという伝統が生きつづけるサーフィンの世界がここにある。

Reference : Surfing Magazine “Jon Pyzel by Chas Smith “Jan/2014
文:チャス・スミス

ジョン・パイゼルは世界中のホットなサーファーにサーフボードをシェープしているが、彼自身も6才にしてすでに世界クラスのホットなサーファーだった。知られていないが、これは事実。

パイゼルはカリフォルニアのサンタバーバラ出身。子供のころからサーフィンの魅力にとりつかれ、それ以外に興味はなかった。まさにサーフィンのために生きていたパイゼルだが、スポンサーを獲得してプロになる道を目指さなかった。というのもリンコン・デザイン・サーフショップのオーナー兼シェーパーのマット・ムーアにすでに認められていたからだ。
「マットが僕のボードをシェープしてくれたから、彼の店によく行ったんだ。シェープに興味を持ったのはそのころから。だってマットは最高のライフスタイルを送っていたからね。彼はとにかくサーフィンがしたいだけで、シェープしてグラスして仕事を終えたらサーフィン。僕もサーフボードをシェープして彼みたいな生活をしようと心に誓ったのさ。」

シェープに挑戦したのはその数年後だった。「線も上手に描けない奴がアートしようって思うようなものかな。まあとにかく自分のボードを作ってみようってブランクスを買ってやってみた。6’4”かそのくらいのをシェープしてグラスやサンディング、エアーブラシもした。けっこう調子良かったよ。」

1992年に彼はサーフィンのためにハワイのノースショアに移る決心をする。そこでガンボードのビルダーとして知られるジェフ・ブッシュマンと出会う。
マット・ムーアと同じようにブッシュマンもパイゼルの世話をみるようになる。芸術家肌のブッシュマンはジョンにサーフボード製作の全ての工程をハンドメイドで作るようにアドバイスする。定職が無かったパイゼルはハワイでサーフィンが続けられるならとサーフボードの修理からグラス、ホットコート、ラミネートとなんでもこなして生計を立てた。(別の記事によるとハワイに移った頃のパイゼルには仕事が無くホームレスのような生活を送っていた時期があったという)
「でも私がハワイに行ったのはサーフィンのためで仕事をするためじゃあなかったんだ。」とパイゼルは当時のことを語った。

そしてある日、アレックス・フローレンスという女性が3人の子鴨を引き連れてふらりと店にやってきた。6才の長男ジョンジョンのためにボードを作って欲しいとアレックスはパイゼルに言った。彼はそれまで子供用の小さなサーフボードを作ったことがなかったが、それでもとにかくその頼みを引き受けることにした。サクセス・ストーリーがそこから始まった。
パイゼルとジョンジョンは共に成長した。「私のシェーピングは彼のサーフィンと共に育った。」とファイゼルは正直に当時を語った。そして現在のジョンジョンのサーフィンが証明するように、ジョン・パイゼルは世界のベストシェーパーの一人と賞賛されるまでになった。

李リョウ

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