photo by Ron Church
https://eos.surf/entries/downing-george
レジェンド中のレジェンドと呼ばれたジョージ・ダウニングのプロフィール
ハワイ州オアフ島出身の正統派ビッグウェーバー。1930年にホノルルで生まれ。サーフィンはワイキキで9才から始める。同時期のビッグゥエーバーとして知られるウェリー・フロイスからサーフボードの作り方を教えられる。マカハのビッグウェーブサーフィンもウェリーから手ほどきを受けた。
その二人は友人のラス・タカキとともに1946年にサーフィン史上始めてラニアケア、そして1947年にはマウイのホノルアベイをサーフした。またハワイからカリフォルニアへヨットで渡り海岸線を航海しロセンジェルスでボブ・シモンズに会いファイバーグラスの技術を習った。
1950年代にダウニングは次世代となるビッグウェーブボードを開発。それまでのボードはホットカールと呼ばれてニス仕上げのレッドウッド製でフィンレスだった。しかしダウニングが開発したのはバルサ製でファイバーグラスが施され取り外し可能なフィンが装着されてあった。彼はウッディ・ブラウンやバジー・トレンなどの仲間たちとその『ロケット』と呼ばれる10フィートレンジのボードで、それまで限界とされていたマカハの20フィート以上の波をサーフすることに成功した。
ワイメアが新しいビッグウェーブポイントとして脚光を浴び出すとマカハより距離は短いが、強烈なドロップが求められるワイメアでサーフするのを彼は好んだ。ダウニングはその卓越したサーフィンの技術からマスターと呼ばれ、長年に渡り多くのハワイアンサーファーを指導した。そのなかにはジョーイ・カベル、リノ・アベリラ、マイケル・ホーなどがいる。
ダウニングはサーフィンの研究家としても知られて天気図やスゥエルのフォーメーションに熟知していた。波のない日にはシュノーケリングで海底の地形とスゥエルがどのように影響しあうのか調査した。サーフボードの製造方法については知識を貪り、サーフィンの全ておいて豊富な知識を持つに至っては「先生」や「グル」とレジェンドサーファーたちから呼ばれた。だが一方でダウニングはメディアに登場することを避けナット・ヤングが上梓した『History of Surfing』にも本人の意向で名前や写真が掲載されなかった。だがナット・ヤングは、その本の最終ページにジョージ・ダウニングがサーフィンへ偉大な貢献をしたと記述している。
ダウニングは1954年、1961年、1965年とマカハインターナショナルで優勝。クイックシルバー・イン・メモリー・オブ・エディ・アイカウのコンテストディレクターは1985年から務め、開催の判断はダウニング自身が決めていた。ダウニングの長男ケオニ・ダウニングは1990年の大会で優勝している。
写真や資料はEncyclopedia of surfing より
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(李リョウ)