シリーズ「サーフィン新世紀」24
CAで、未だ一人の世界チャンプは「運命の人」だったのか?
キング・オブ・キングス、トム・カレン。伝説となったサーフセッションの数々、突然の引退からフランスでの隠遁生活、世界チャンピオンへの復活劇そしてロックミュージシャンと、どれもが映画のストーリーのようだ。
サーファーならば誰もが知るそのキャリアを、今回、別の角度から改めて検証すると、彼を押し上げた不思議な力が、アマチュア時代から彼の周囲で起こっていることが明るみになった。それは偶然か、もしくは宿命かそれとも強運か、とにかくトム・カレンは、やはりスーパースターになるべくして成った人だった。
スーパースターの誕生前夜
トム・カレンの伝説は、彼がデビューしたころのカリフォルニアをまず知ると深く理解できる。70年代から80年代にかけてサーフィン大国でありながら、ハワイなどのメジャーなコンテストで勝てるサーファーが存在しなかったカリフォルニアは「眠れる巨人」といわれていた。
米サーファー誌の当時のノースショアーレポートを読めば分かるが、そこに登場するのは、ハワイやオーストラリアそして南アフリカのサーファーばかりで、カリフォルニアはコンペティティブなコンテストにおけるメインストリームから外れている印象が強い。
カリフォルニアが「眠れる巨人」と冷笑された理由は、時代背景も影響していた。60年代から続くベトナム戦争の反対運動やヒッピームーブメント、そして公民権運動などもあり、西海岸の若い世代には反体制の意識が強かった。
サーフィンはカウンターカルチャーの象徴の一つで、商業主義を否定しアンチサーフコンテストの風潮が濃厚だった。サーファーたちにとって、サーフィンはスポーツではなく、むしろカルトだった。黒いウェットスーツとクリアーなサーフボードに乗り、ビジターには排他的な態度で接した。
1976年、後に共和党でハワイ州選出の議員となるフレッド・ヘミングスが、ハワイで「IPS」を立ち上げ「プロツアー!」と叫んでも、カリフォルニアはまだ煙の向こうでぼんやりとしていた。だが、その状況こそが、結果としてトム・カレンの登場をいっそう鮮烈かつ華々しくした。まるでカリフォルニアが、彼のための舞台を整えるために沈黙していたようだとさえ感じてしまう。
マルチフィンとリンクした天才
80年代に起きたサーフボードのデザインもトム・カレンに味方した。彼は父親のシェープするシングルフィンのサーフボードでサーフィンを始めたが、やがて新進気鋭のサーフボードビルダー、アル・メリックと出会う。アルは流体力学なども積極的に取り入れたハイパフォーマンスのサーフボードを、トムと二人三脚で開発する。時を同じくしてサーフボードデザインの世界では、大変革が起こっていた。マーク・リチャーズのツインフィンフィーバーとサイモン・アンダーソンのスラスターの登場である。
トム・カレンは、まだ自力のパワーが足りないころは、ルースなマーク・リチャーズの考案したツインフィンでターンのタイミングを磨き、やがてサイモン・アンダーソンが発明したトライフィンが、フィットした。もちろんそのどちらもアル・メリックがトムのためにリメイクしたボードだった。
「トライフィンとトム・カレンの登場によってショートボード革命は本当の終焉(しゅうえん)を遂げた」とボブ・マクタビッシュが言及するほど、その二つのコンビネーションは神がかり的なマッチングを見せた。
もしシングルフィンの時代が続いていたら、トム・カレンは歴史に残る結果を残しただろうか?フィンの数など天才には問題のないことかもしれないが、当時のライバルだったマーク・オクルーポやトム・キャロル、そしてゲーリー・エルカートンのパワーを考慮したとき、トム・カレンが彼らにシングルフィンで対等に戦えたかと思うと、いささかの疑問が残る。彼のスムースで淀みのないスタイルはトライフィンだからこそ発揮されたと思うのは筆者だけではないだろう。
少し話題はそれるが、トム・カレンは、少年時代にサーファーとして別の人生を選ぶ可能性もあった。それはレニー・イエーターを中心にするアンダーグラウンドなサーファーの集団に加わることだ。彼らは漁師などの職業を持ち、ホリスターランチやチャンネル諸島でサーフィンを楽しむというレイドバックしたライフスタイルを志向していた。父親のパット・カレンはそのイエーターのブランドで、サーフボードをシェープし漁師を生業としていた時期もあった。もしトムが、アンダーグラウンドなライフスタイルを選んだとしたら、サンタバーバラのローカルヒーローで終わっていたかもしれない。
いずれにせよ、トムとアルとのリレーションシップは、あまりにも有名で必然だったと思うかもしれないが、アンダーグラウンドな空気感の漂うサンタバーバラで、コンペを志向した二人のめぐり合いと、サーフボードデザインの変革期がどんぴしゃりとハマったのは、奇跡といっても差し支えない。
専属サーフフォトグラファー
サーファーズジャーナル日本版10-1の記事「OUTLANDER」を読めば詳しく書かれているが、ジミー・メティコというフォトグラファーも、トム・カレンという不思議な力に引き寄せられている。
カリフォルニアのサーフィン業界の中心は、ロサンゼルスよりも南である。サンタバーバラは、LAより北に位置していて、南のハンティントンやサンクレメンテ、サンディエゴのサーファーに比べると、メディアに露出するチャンスはかなり少なかった。
アル・メリックとトム・カレンの新しい流れが、サンタバーバラで起こりつつあったにも関わらず、それを撮るカメラマンが当時いなかった。
そんなときにメティコが、サンタバーバラの写真学校で学ぶためにテキサスからやってきた。テキサスからやってきたサーファーなんて、誰も相手にしてくれないだろうとメティコは思っていたが、アル・メリックの店のフロアマネージャーが、なんとテキサス出身で、彼と出会いによってメティコはチームのサーファー達を撮影するという大きなチャンスに恵まれる。
サンタバーバラというあまりメディアでは紹介されていない場所で、しかも被写体はチーム・チャンネルアイランド。メティコはチームのお抱えカメラマンとなって、プライベートな写真も撮れるほどその内部にまで入り込むことができた。米サーファー誌が、彼の写真に飛びついたのはいうまでもない。
専属カメラマンを得たことによって、トム・カレンたちはフォトセッションのコツを知るようにもなったと前述の記事に書かれている。つまり、ワイプアウトを恐れない激しいアクションを何度も繰り返して撮影したのである。アル・メリックのサーフボードが、まだカリフォルニアでも知られてない時代。サーフィン誌に掲載されたトムのすばらしいアクションと、あの独特なハニカムのディケールは、世界的に大きな注目を集め大ブレイクのプロローグとなった。
NSSAが、天才をスポーツアスリートに育てた
トム・カレンをプロのコンペティターとして育てた組織と人材が、彼のアマチュア時代に図らずもカリフォルニアで誕生している。それはNSSA ( National Scholastic Surfing Association ) だ。
そのきっかけは、1978年にアマチュアの世界選手権が6年ぶりに開催されることになり、アメリカでアマチュア組織NSSAが結成された。もちろんトム・カレンのために設けられた組織ではない。
NSSA創設者のチャック・アレンは、オーストラリアに対抗できるナショナルチームという壮大な夢を実現するために、元世界チャンピオンのピーター・タウネンドと、イアン・カーンズをオーストラリアからコーチとして招いた。
すでに、オーストラリアでは、ボードライダークラブというアマチュアサーフィンの組織が20年以上も運営されていて、オーストラリアサーフィンがコンテストで常勝する原動力となっていた。
ナショナルチームの一人だったトム・カレンは、NSSAのコーチとなったタウネンドたちから、スポーツアスリートとなるべく、パドル強化やビーチランニングなどのトレーニングでシゴかれ、さらにサーフコンテストの戦略なども伝授されている。サーフィンのために陸上トレーニングを行うことは、当時はまだ常識外れだった。だがサーフィンだけでは十分ではないことを、カレンはアマチュア時代に彼らから教えられていた。しかもその効果は大きかった。
トム・カレンは1980年に世界選手権のジュニアで優勝、1981年にはメンズで優勝、ケイティンプロアマではショーン・トムソンに次いで2位に入り、翌年は優勝。彼がプロになってからの輝かしい戦績は、ここで筆者が改めて語る必要はないだろう。
彼のサーフィンが天才の域に達していることは誰もが認めるところだが、その才能を支える基礎作りと、コンテストに勝つためのタクティクスが、NSSAによってアマチュア時代のトム・カレンにしっかりと備えられていた。
沈黙のカリフォルニアに、救世主のように現れたトム・カレン。時代とのリンク、最新デザインのサーフボード、専属サーフフォトグラファーそしてNSSAと、彼のところへ磁石のように引きよせられていったこれらの事象はなんだったのだろうか、宿命か強運か、それとも偶然だろうか。IPS以後、世界タイトルを手にしたカリフォルニア出身のサーファー(メンズ)は、現在のところトム・カレン一人だけだ。
(李リョウ)