波情報BCMの会員特典「BCM x F+ 2022年カレンダー」では2001年から2021年までのワールドチャンピオンを紹介。各月の採用写真について解説するF+つのだゆき編集長オリジナルコラム企画を、THE SURF NEWSでは特別に翌月公開します。今回は9月を飾ったエイドリアーノ・デ・スーザについて。
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F+(エフプラス)
ツアーの中にブラジル人が入ってきたのは、80-90年代のファビオ、フラビオの時代が最初の記憶で、その後だいたい毎年数人程度のブラジリアンが入れ替わり立ち代わりトップ44なり34なりに入っている時代が長くあった。それでも、今のようにブラジリアンストームが来るとか、ブラジル人のワールドチャンピオンが生まれるという感じはなく、ただ一定数のブラジル人が毎年ツアーにいる、という状況で、アメリカ(ハワイ含む)、オーストラリアの2大勢力の下にある第3勢力だった。
それがいつかブラジルからワールドチャンピオンが出るかもしれない、という話が現実的なものとして語られ始めたのは、このエイドリアーノ・デ・スーザが登場してからで、もしブラジルにワールドタイトルが行くなら、それをもたらすのはこのスーザだろうと考えられていた。
結果としてブラジル初のタイトルはガブリエル・メディーナが2014年に取り、スーザは後輩に先を越されることになるが、翌2015年、ツアー10年目にしてついにスーザもタイトルを手にした。そこから今日まではジョンジョン対ブラジル勢という感じのタイトル争いと言える。ガブ、スーザ、ジョンジョン、ジョンジョン、ガブ、イタロ、ガブ、そして今年はフィリッペ大躍進。ジョンジョンひとりでブラジリアン4人相手という様相だ。このブラジリアンのトップ選手の層の厚さは、キャプテンブラジルともいえるスーザの背中を追ってきた選手たちが形成するニュージェネレーションのパワーといえる。
余談だがスーザがタイトルを取った2015年という年は、大原洋人がハンティントンでQS10000イベントを優勝した年であり、CTではJベイでのシャークアタック、パイプの練習中にオウエン・ライトのワイプアウトによる脳震盪、記憶障害、そしてタイトル争いのトップを走っていたミック・ファニングの兄が、パイプのコンテスト期間中にオーストラリアで突然死するという、波乱の年だった。あれからもう7年もたつんですね。
1987年2月13日生まれの35歳。170センチ66キロと、体格的には日本人と変わらないし、近くで話をしていても、小さいな、という感じがするが、小さいけどデビュー当時よりだいぶ分厚く進化したかなと思う。特に上半身。サーフィンスタイルの進化に伴って体格も大きく変わった。いつどこであってもニコニコ挨拶してくれるナイスガイで、そのちょっとシャイな感じの笑顔は今でも懐かく思う。
2003年16歳でASPワールドジュニアチャンプ、2005年WQSチャンピオンに輝き、2006年に19歳でCTのルーキーイヤーを迎える。
ツアーに入ったころは当時のブラジル人特有のパタパタした動きの速いサーフィンで、いやぁ、あれではタイトルは無理だな、というサーフィンだった。
当時はケリーの第2次黄金時代で、ケリーが持ち込んだ正確なレールワークでの新しいパワフルでアグレッシブなサーフィンに追いつけ追い越せの時代で、スーザのような典型的なブラジルの軽くて速いサーフィンは、あまり評価されていなかった。
そこからサーフィンを進化させ、CT初優勝は2009年のムンダッカ。2011年にガブリエル・メディーナがCT入りした年には年間2勝を挙げていて、強い先輩の背中をしっかり見せていた。2014年にそのガブがブラジルに初タイトルをもたらしたのを、最も喜び、最も悔しがっていたのがこのスーザだろうと思う。
ブラジリアンストームに沸いた2014年が明けた2015年1月、スーザにとって大きな事件が起きる。
親しい友人のサーファー、リカルド・ドス・サントスが些細な口論から銃撃にあい、死亡してしまうのだ。スーザはその悲しみを胸に、このシーズンのタイトル奪取に全身全霊を傾けることを誓う。
どの会場にも早くから入り、ローカルの教えを仰ぎ、徹底的にその波を練習した。このころのスーザは、昔の軽いサーフィンではなく、ビッグカーバーと言ってもいいスタイルに変わっていて、オープンフェイスの波ではどでかいスプレーをあげる選手に進化していたが、各会場に特化したサーフィンを手にいれるために、最低でも2週間前には会場に入り練習を重ねたという。初戦のGCで3位、この試合ではフィリッペが19歳でツアー初優勝をあげていて、スーザはそのフィリッペにセミでやられた。そしてベルズではミックに次いで2位、3戦目のマーガレットリバーで優勝し、カレントリーダーとなる。練習の成果はしっかり出ていた。
そして彼がどれだけこの年にかけていたかのエピソードとして有名なのが、最終戦のパイプでのそれだ。スポンサーのブランド名を冠した、何々ハウスと呼ばれるパイプのビーチフロントに軒を連ねるライダーたちの前進基地。それがあれば夜明けから夕暮れまで波を見ていられるし、好きな時間に好きなだけ練習できる。
ミックがリードしていたタイトルレースを逆転勝利するにはパイプを攻略するしかなく、そのためにはそういう環境は絶対必要だと思われた。しかし、大手サーフブランドをスポンサーに持っていなかったスーザは、必死でジェイミー・オブライエンの家のドアをたたいた。
ある日家の前に大きなボードバッグを持ったスーザが立っていた、とジェイミーが何かのインタビューで話していたのを記憶している。スーザは庭で野宿でもなんでもいいから泊めてくれと懇願し、その熱意に負けてジェイミーも彼を受け入れ、パイプ攻略法を授ける。パイプは庭先であり、そのすべてを知り尽くしているジェイミーのコーチングのおかげで、パイプでは今まで全くいいところのなかったスーザがどんどん開眼していき、結果ブラジル人として初のパイプマスターの座に輝き、ワールドタイトルを決めた。
スーザのタイトルの陰にはリカルド・ドス・サントスとジェイミー・オブライエンがいた。そしてそのうえで、彼が年間を通してこれ以上はできないという、ものすごい努力をした結果だった。才能的なこととか、選手の旬とかのタイミングを考えると、すでにベテランの域に入っていたスーザがここでタイトルを取るというのは、本当にものすごい努力のたまものといえると思う。
このシーズンのスーザのボードにはサントスへのメッセージが書かれていたりしていて、サントスとのことやスーザの決意や努力はみんなが知っていたから、誰もが心から祝福する、とてもエモーショナルなタイトルだった。