via YouTube 1983年のパイプラインマスターズで優勝したデーン・ケアロハ

幻の世界チャンピオン、デーン・ケアロハ逝く

『グレートデーン』と呼ばれたハワイアンパワーサーフィンの覇者。その知られざる成功と挫折


80年代のサーフィンを語るうえで欠かせないサーファー、デーン・ケアロハが、5月10日癌との闘病の末にこの世を去った。享年64歳だった。ちなみにデーン・ケアロハには4人の息子と3人の 娘がいる。
デーン・ケアロハ(本名デーン・ブライオン・カレイ・ケアロハ)は、1958年にホノルルにて、純血のハワイアンの家庭に生まれる。父親は大工だった。10才のときに、デーンは父親に連れられてワイキキで初めてサーフィンに挑戦した。しかし最初の波でワイプアウトして、デーンは波が恐ろしくなり、海から上がると、木にしがみついて泣いたというエピソードがある。そのトラウマにより、デーンはサーフィンを遠ざけてしまう。

しかしデーンが14才のとき、兄フランシス・ケアロハがサーフィンでハワイのトップアマチュアの選手になったこともあり、デーンは波に対する恐怖心を自ら克服してサーフィンを再開し、2年目の1973年にはハワイ選手権のボーイズ部門で優勝を果たす。そして1976年には全米サーフィン選手権のジュニア部門で優勝しその才能を証明することになる。やがてデーンはワイキキで、バテンス・カルヒオカラニやマーク・リデルとともに、サーフィンの魔術師と言われたラリー・バートレマンの弟子として活躍しメディアにも露出するようになっていく。彼らが使っていたのは70年代半ばに人気のあったベン・アイパによるスティング(スティンガー)というデザインだった。

プロサーファーとしてケアロハが最初に注目されたのは、1977年にサンセットビーチで開催されたデュークカハナモク・サーフィンクラシックであった。彼は19才のルーキーだったにも関わらずファイナルへ進出し、リノ・アベリラ、マーク・リチャーズ、ウェイン・バーソロミュー、ピーター・タウンゼントを下して3位に入賞した。

カラパナのBGMと共に大ヒットしたサーフムービーの名作『メニークラシックモーメンツ』に出演したデーン・ケアロハは「グレートデーン」と紹介された

身長175センチ、体重84キロという剛健な体躯をしたケアロハのサーフィンは、ワイドスタンスでサーフボードを押し込むようなターンをするスタイルだった。パワーサーフィンという言葉が席巻した時代。デーン・ケアロハはそのスタイルの象徴であった。さらにパワーだけでなく、波を見極めるセンスや、チューブの中では禅のような落ち着きがあるところも、ケアロハの持ち味として人々を魅了した。

70年代半ばに南アフリカ出身のサーファー、ショーン・トムソンが、チューブライディングのメソッドを開発し、どのサーファーよりも深い創造的なライディングを極めた。やがて70年代後半になるとデーン・ケアロハがトムソンのテクニックをさらに推し進め、世界最高のチューブライ ダーとして、ハワイのバックドアパイプラインなどでディープなバレルをメイクすることに成功する。
さらに80年代初頭に、デーン・ケアロハは膝を曲げたバックサイドのチューブスタイルを開発した。当初は「レイフォワード」とか「トライポッド」と呼ばれたが「ピッグドッグ」という名が定着し現在に至っている。このテクニックは、それまでバックサイダーが苦手としたチューブライ ドの解決策となり、フロントサイダーに匹敵するチューブライドを可能にした。

サーファー個人としてのケアロハは表情が強面だったために、サーフジャーナリストだけでなくワールドツアーで活躍するサーファーたちも、彼とは距離を置いて接したと伝えられている。オーストラリアのサーフジャーナリスト、ティム・ベイカーは海の中で波を待つケアロハの姿を「孤独で、不思議なほど寡黙」と表現した。「彼はいつも揺るぎない。手強いハワイの海にも翻弄されずその場に根ざしているように見える」

プロサーファーとしての戦歴は、1978年から1982年まで世界ツアーの主力選手として活躍した。総合順位では9位、4位、2位、3位、6位となっている。さらにパイプラインマスターズでは4 回決勝に進み、1983年に優勝している。デュークカハナモク・インビテーショナルでは6回決勝に進み、1983年に優勝した。

しかしケアロハは、プロとして最高のシーズンになるはずだった1983年に、選手生命を絶たれる事件に不幸にも巻き込まれる。新しいプロ組織のASPが、旧組織のIPSと確執を起こしハワイでの 3つの試合の公認を取り消す事態に発展したのだった。そしてASPはトップクラスの選手たちにハ ワイでの試合出場を禁止した。

その政治的な争いに巻き込まれたケアロハは、ASPの決定を無視して試合に出場し、その2つで優勝する。ケアロハには1000ドルの罰金が課せられたが、それも拒否したためにプロツアーの出場権までもが剥奪されてしまった。組織運営のトラブルが起きなければ、デーン・ケアロハはハワイで初の世界チャンピオンになっていただろうと評する人は多い。選手として絶頂期を迎えたケアロハは行き場を失い、25才という若さで世界ツアーから引退せざるを得なくなった。

その後の数年間、ケアロハは完璧なパワーと正確さでフリーサーフィンを披露し、そのスタイルは ハワイの強豪ジョニーボーイ・ゴメスや1990年の世界チャンピオンとなったマーティン・ポッター(南アフリカ)などの多くの次世代サーファーに受け継がれた。

1980年のサーファー誌読者投票賞では、マーク・リチャーズに次いで準優勝。1990年と1995年には、ワイメア湾で行われたビッグウェーブコンテスト「クイックシルバー・イン・メモリー・オ ブ・エディー・アイカウ」に出場した。2012年には、ワイキキでデーン・ケアロハによるサーフ・アカデミーを主宰し、同時に傷痍軍人の心のケアをするボランティア活動も積極的に行った。

新しい時代を切り開いたデー ンのパワーサーフィンは国の 壁を超えて支持された tracksmag.com.au/

T&Cのデーン・ケアロハモデル

デーン・ケアロハがプロとして活躍した時期は、マーク・リチャーズが4度の世界チャンピオンとなったときと重なっている。当時はツインフィンフィーバーという言葉が流行ったほどにツインフィンのサーフボードが人気を博したが、それはマーク・リチャーズがスモールウェイブを克服するために開発したサーフボードが発端だった。この流行はハワイにも飛び火しデーン・ケアロハモ デルというツインフィンがタウン&カントリーから発売されて大人気となった。その経緯は、タウン&カントリーのマネージャーだったトニー・ヒガが、マーク・リチャーズのサーフボードをオース トラリアからハワイに持ち帰り、それを基にシェイパーのグレン・ミナミがプロトタイプを作っ た。それを試したデーン・ケアロハが、一目惚れをしてデーン・ケアロハモデル by グレン・ミナミ が誕生したのだという。このツインフィンやグレン・ミナミのコラボレーションで、デーンは世界 選手権などで大活躍する。

ロキシーの立役者

世界的なブランドに成長したロキシーの誕生に、デーン・ケアロハが関わっていることを知る人は少ないだろう。そのきっかけはクイックシルバーのCEOだったボブ・マックナイトとそのハワイで代表だったグレン・モンタカの計らいで、デーンがワイキキにあるクイックシルバーボードライダーズクラブのマネージャーを要請されたことから始まった。数年間マネージャーを務めたデー ンはボブ・マックナイトに新ブランドを提案し、ジェイク・ミズナをパートナーにしてロキシーブ ランドを立ち上げた。ロキシー初の店舗はワードセンターにオープンした。このブランドによる大成功は改めてここで語るまでもないだろう。

サーファーズジャーナル日本版12.3にデーン・ケアロハの記事が特集されている。

(李リョウ)

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