人生100年時代。千葉の海に挑み続ける70代の女性ショートボーダーとボディボーダーがいる。2人とも冬の海もなんのその。敢然と波に立ち向かっている。彼女たちを駆り立てる情熱の源泉とは何か。インタビューすると、多くの経験の果てにたどり着いた境地と含蓄ある言葉の数々に触れることができた。
デビューは59歳
11月下旬の晴れた祝日。千葉県一宮町東浪見海岸の右堤防付近は、モモ~腰の優しい波が割れていた。100人ほどのラインナップで、淀川公子さん(72)はきっと、最年長だっただろう。
サーフィンを始めたのは2010年秋。夫の死の1年後、「いつ死ぬかわからないから、昔からずっとやってみたかったことをやろう」と思い立った。59歳の時だった。
しばらくは、ファンボードなどで楽しんでいた。「最初は御宿で、息子の友達が押してくれて立ったり。そのうち、一人で板を持って月1回ぐらい湘南へ行くようになった。楽しかった。スープでパドルして立ってた。帰り道を運転しながら、『今日は5回乗れた』とか思い返してた」
事務職を退職し、62歳で「一人暮らしをしてみたくて」、単身ハワイへ。2カ月間、英会話学校のコンドミニアムに泊まりながら、週4、5回サーフィンした。
「帰国したら、腹~胸の波に乗れて、びっくりされた。このままうまくなると思っていたら、全然乗れなくなっちゃったの」。ハワイとの波質の違いや体力の衰えもあってか、日本ではうまく乗れなくなってしまった。
「一度はショートに乗ってみたい」
70歳を超え、YouTubeで一宮町にある「ビレッジサーフクラブ」を見つけた。「一度はあきらめてたけど、もう先も長くないし、いつまでサーフィンできるかわからない。だったら、一度はショートに乗ってみたい」と、昨年5月、クラブの門を叩いた。
ショートボードに乗りたい中高年の指導に重点を置くビレッジサーフの指導のもと、中古のショートボードを買って練習を開始。最初はパドルはおろか、波待ちもできなかった。1年半、月に5、6ラウンドをこなし、地元のプールにも通って毎回100メートルほど泳いできた。筋力がつき体重は3キロ増加。今では、腹~胸の波でもゲッティングアウトし、ラインナップで波待ち。その姿に驚きの表情を浮かべるサーファーも少なくない。
ショートボードで初のテイクオフ
でもまだ、うねりからのテイクオフには成功していなかった。「板は波にだんだん押されるようになった。スープでは乗ったことあるんだけど、うねりだと怖くて腰がひけちゃう。あと紙一重で乗れるってとこまで来てる気がするんだけど…」
そう話してくれた数日後、東浪見海岸で撮影に臨んだ淀川さん。いつもより少し勇気を出して、波の力をボードで感じながらパドルした。ボードはすーっと走り出し、淀川さんはすっくと立ち上がった。生まれて初めて、ショートボードでうねりからテイクオフした瞬間だった。
満面の笑み。「ずっとショートなんて無理だ、無駄だと言われてきた。カメのような歩みだったけど、あきらめないでよかった。みなさんにとっては大したことないかもしれないけど、私にとっては大きな一歩なんです」。声を震わせていた。
どうしてそんなにショートボードにこだわるんですか。素朴な疑問をぶつけると、淀川さんは少し考え、言った。
「若い時の光景が頭にくっついてんのかな」
50年前の海の思い出
夫と淀川さんは18歳で出会った。2人とも海が好きだった。週末の夜、東京の福生市を車で出発し、海岸沿いを6、7時間かけて伊豆・多々戸浜へ向かった。
「朝5時ぐらいから海で遊んでた。2人でサーファーたちを見て、あんなにできたらどんなに気持ちいいだろうなあ、かっこいいなあと思ってた。で、朝10時にはもうあっちを出て。そんなことを22歳で結婚するまで、月3、4回やってたかな」
50年前、若い2人は、わずか5時間の海を満喫するため、往復12時間のドライブを厭わなかった。やがて5人の子宝に恵れ、子育てに追われる中でも、年に一度は、家族で伊豆へ出かけた。
「夫は若いころ、友達と木製ボードでサーフィンして、リーシュがないから、失敗するたび浜辺へボードを取りに行ってたって話してた。年をとると、あの人はもう海には入らず、ビーチでお酒を飲みながら、サーフィンする人たちをずっと見てた。海は一番の思い出なんです」
波に乗るショートボーダーの姿は、夫が好きな光景だった。海を見つめる夫の視線の先に、淀川さんはその身を置きたかったのかもしれない。夫はきっと、天国から、その努力と雄姿を見届けたに違いない。
71歳のボディボーダー
一宮町よりさらに北、千葉県山武市の本須賀海岸でボディボードに夢中なのは、長倉妙子さん、71歳だ。ここに至るまで、波乱万丈の人生を歩んできた。
東北地方の裕福な家に嫁いだが、家政婦のような扱いを受け、メンタルに不調をきたした。当時のつらい日々を支えてくれたのは、趣味のアマチュア無線で知り合った通称ドラさん(86)。電話代が高額な時代だったが、福岡からの電話で毎日1時間、話を聞いてくれた。20年前、嫁ぎ先を飛び出し、ドラさんのもとへ。自身の経験をもとに、心理カウンセラーの資格もとった。
パートナーは認知症
やがて、長女が住む千葉に引っ越したが、ある時、福岡で一人暮らしを続けていたドラさんがボヤ騒ぎを起こす。「ゆで卵を作ろうとしたら黒い煙が出て、警察と消防車が来たって言うの。これは一人にはしておけないなって。軽度の認知症で。だから、こっちで一緒に暮らすようお願いしたの。支えてくれた恩があって、一人にしてはおけなかった」
2019年1月、大網白里市に一軒家を借りた。2人は籍を入れ、一緒に住み始めた。日本でも有数の無線タワー設計者だったドラさんのため、タワーが建てられる広い庭付きを選んだ。
海が近いことに気づいたのは引っ越しから1年後。自転車で白里や片貝の海岸へ向かい、砂浜でウォーキングしながら、サーファーを見ていた。「あれは時間とお金がある人たちなんだろうなって。うらやましかったけど、自分には無理だと思ってた」
だが、さらに1年後、ボディボードをしている人を見かけて思った。「自分もやりたいな。どうせこの環境ならやってみよう」
2021年9月、とあるボディボードのスクールを受けた。「おもしろかった。でも、最高齢だって言われて。自分ではチャンレジするのは当たり前のことだと思ってたけど、周りからはそう見えるんだなって」
勧められるがままに10万円かけてセミドライを作ったが、手元に届くと、重くて硬くて着方も分からず「1年間、吊るしたままだった。始めたばっかの人に厳しい冬を超えられるはずもなく、続けられないと思った」。海からは遠ざかってしまった。
プロのスクールで開眼
転機が訪れたのは、ボディボードの汐月麻子プロとの出会い。白里海岸でたまたま話をしたボディボーダーの女性が紹介してくれた。2022年9月、汐月プロがホームとする本須賀海岸で、スクールに再チャレンジ。「波を見て足がすくんだ。本当は泳げないけど、言ったらスクールを断られると思って隠してたの」と笑う。「大きな波が来ると固まってしまってザバンと食らった。でも楽しかった!」
スクールを受ける金銭的余裕がない時、1人で本須賀海岸に来ると、汐月プロやスクール生らが声をかけてくれた。「たえさん、背中がやる気満々ですよ」と。冬の間も週2、3回通った。「板押さえてー!」「鬼キック!」という汐月プロや仲間の叱咤激励で、今も続けられているという。
ドラさんとけんかしても、海に入って「くそじじー!」と叫べばすっきり。アウトが遠い本須賀海岸では、ゲッティングアウトできる前と後での地獄と天国のような風景の差を知った。「キック、キックでタフになった。沖へ出られた時のキラキラした海は本当にきれいね」
ボディボーダー仲間もたくさんできた。「あす行くよー」と声を掛け合い、一緒に海に入る。仲間といれば恐怖も吹き飛ぶ。終わったら、軽食を持ち寄り、駐車場でおしゃべり。「若い人といると、いろんなこと吸収できる」と喜ぶ。
最近長女に「足が細くなったんじゃない?」と言われた。20年前、うつ病を患い動けなかった日々がうそのようだ。長女は「同年代でそんなにがんばってる人いないよ。お母さんを誇りに思う」とも言ってくれた。
海ライフと介護、家庭菜園などの日々をつづるインスタグラムを1年前に開設。動画編集ソフトも駆使し、フォロワーは約670人。いつか自分の半生を本に書くのが夢だという。
なぜ海に惹かれるのか。長倉さんは言う。
「海は浄化してくれる。いろんなものが手放せて、ちっちゃいことはどうでもよくなる。癒しの効果がすごい。どんな人も受け入れてくれる。これからもダメ元でなんでもやってみようと思う。泥船だってまずは乗ってみて考えればいいじゃない。沈んでしまったら、底を蹴って浮上して、息を吸ってまた次を考えればいいんだから」
70代女子サーファー、ただいま青春真っ盛りだ。
(沢田千秋)