F+(エフプラス)
前回からの続き。
サーフィンはメジャースポーツにはなりえない、というボビーの話。当時のASP、そして現在のWSLも、目標はサーフィンをアメリカのメジャーな商業スポーツのように発展させよう、ということだった。テニスやバスケットボールや野球のように、選手が何十億、何百億と稼げるスポーツ。サーフィンをしたことのないファンですら、ビール片手にサーフィンを熱く語るような状況。それを夢見た。
ボビーはそこにひとつひとつ、なぜサーフィンはそうなりえないかの検証を示して見せた。
まずボビーが言ったのはスポーツとしての入り口のハードルの高さ。
サーフィンをするというときに、1000ドルもするボードが必要なこと。海に行くのに車でドライブしないといけないこと。場所によってはウエットスーツもいるし、とにかく金銭的な負担が大きい。
LAでも治安が悪く貧しいエリアもよく知っているボビーだからこそ、現実にそこの子供たちがサーフボードを手にすることなどありえないこともよく理解していたし、逆にバスケットボールなら、ボールひとつあれば街中の空き地でみんなが楽しめることもよく理解していた。
もうこれだけでサーフィン人口がある一定以上増えないのは自明の理だ。まぁ、昔からマリンスポーツというのはお金持ちのスポーツともいえるわけで、ボールひとつと何千ドルの道具は比べるべくもない。それでもサーフィンは、マリンスポーツの中ではお金のかからないほうなのかもしれないが。
次にサーフィンができる場所の少なさ。
地球上の陸地の海岸線の中で、サーフィンのできるエリアがいったい何%あるというのだ。そしてそれは陸地全体の何%になるというのだ。おそらくほかのスポーツのできる平地や山の0.1%にもはるかに及ばないだろう。それは当然競技人口増加の頭打ちにつながる。サーフィンはどこでも誰でも手軽にできるものではないのだ。周囲を海に囲まれた小さな島国の日本は、地球規模で見れば例外中の例外ともいえる。
これらを考えたとき、サーフィンはテニスのようにメジャーになりえないし、俺たちはテニスプレイヤーじゃない、というボビーの主張となるわけだ。
もちろんテニスだってネットやコートは必要だけど、壁打ちとかピックルボールのように形を変えれば、誰でも楽しめる。でも、サーフィンにはその抜け道がない。
サーフボード、海、波は必要不可欠だ。
中でも一番厄介なのが波だ。コンディションを事前に確定できないため、メジャースポーツには必要不可欠なライブ中継を正確にスケジュールできない。だからみんながスポーツバーで集まって応援しながらサーフィンを語るとか、至難の業になる。スポーツバーに集まったはいいけど、今日は波がないのでやりません、みたいな。だからやるほうも見るほうも、時間にあまり拘束のない人しか楽しめないスポーツといえる。
それらの解決策のひとつとしてプールがあるけど、あれはあれで問題が多く、観戦には向かない。サーフィンをしている時間より、それ以外の何も起こらない時間が長すぎるし、選手にとって必ずしも公平とは言えないからだ。

その上にサーフィンというスポーツはジャッジングのわかりにくさがどうしても残ってしまう。エアーとチューブとどっちがすごいのかをシンプルに数値化できない難しさがあり、そこは解決できそうもない。それは当時も机上で検討されたが、結局基礎点、できばえ点的な、アイススケートや体操競技のような採点方法は煩雑すぎて時間がかかり、結果が出るのはヒート終了後だいぶ時間がたってからになり、それは受け入れがたい、ということで流れた。でも少しでもわかりやすくということで、難易度よりもギャラリーのエキサイト感を優先したために、エアー重視の方向に流れて行く。
とにかく、それらの変革はサーフィンをダメにする、とボビーは吠えたわけだけど、それでもASPはその道を選び、それはWSLに引き継がれ、コロナ禍でツアーがストップしている間にどんどん変化を加速させていき、現在に至る、というわけだ。
いまやボビーのような発言をする選手は皆無だし、それができないように選手たちはルールブックでがんじがらめに規制され、ツアーを継続するにはいい子ちゃんになるしかなく、賞金額はアップしたものの、スポンサーからの収入は減り、CT選手とはいえ安泰というわけではない。

これらのことを考えると、オリンピック種目となったにもかかわらず、現在も続くサーフィン業界の景気の悪さとか、サーフブランドの衰退とかは、自然の流れとして理解できる。今までがバブルすぎたのだ。皮肉にも、この2011年のニューヨークは本当にバブリーな試合だった。選手各人の名前入りロッカー、優勝賞金額も当時としては破格の30万ドル、コンテスト名にニューヨークという地名を使用するのに、ニューヨーク市に何億も払ったという話も聞いた。
そんなことができていた時代に夢を見たものと、それは夢だと主張したものと、何もしないで流れて行ったものと、誰が正解だったのかは、もう少し時間がたたないとわからない。