今年3月に開催された「サーフィン日本代表強化合宿」から、2020年東京オリンピックの出場枠を賭けた国内選考がいよいよ本格的に始まった。
合宿には、NSA・JPSA・WSLJという国内各リーグのトップ選手全75名が「強化指定選手」として招集され、男女各16名が5月の『ジャパンオープン』の出場者として選ばれた。ジャパンオープンの優勝者は9月の『ワールドサーフィンゲームス』への出場権を獲得し、そこでアジア1位になれば2020年東京五輪の出場候補となる。
この五輪選考の第1段階ともいえる強化合宿に参加し、『ジャパンオープン』への切符を女子最年長で勝ち取った選手がいる。庵原美穂、37歳。
千葉鴨川にある亀田総合病院で看護師として働きながら、プロサーファーとして活躍し、2011年から3年連続でJPSA(日本プロサーフィン連盟)の年間チャンピオンにも輝いた経歴の持ち主だ。
海を見渡せば、40代、50代、それ以上の人ばかりという一般サーファーの事情とは裏腹に、プロサーフィン界はここ数年で世代交代が著しく進んでいる。10代前半の選手も続々と台頭してきているなか、30代後半になっても日本のトップランナーとして走り続ける彼女に、惹かれる者も多い。
そんな彼女を、まだサーフィンを始めたばかりの頃から、コーチとして支え続けているのが荻野勉さんだ。千葉・鴨川マルキの目の前のサーフショップ「GLASSEA」の店長であり、自身のサーフボードブランド「CROSS FLAVOR」のシェイパーでもある。
荻野さん自身は、プロとして多くの試合を転戦してきた訳ではないそうだが、これまでの庵原さんの活躍、そして今回のジャパンオープンへの挑戦には、コーチとしての荻野さんの存在が大きかったという。
20代で初めてサーフボードを手にした彼女が、日本のトッププロになり、五輪候補になるまで、どんな道を歩んできたのか。二人にお話を伺った。
TSN:ジャパンオープンへの出場が確定した時の率直な気持ちを教えてください。
庵原:波のコンディションと、若い子たちのレベルが高いこともあり、正直なところ手ごたえがあったという感じではありませんでした。でも、ジャパンオープンの出場枠の中に入れたことは、素直に嬉しかったです。
TSN:コーチにはいつどんな気持ちで報告しましたか?
庵原 :すぐ報告しました。
荻野:本人的には目立って一番になって決めたかったと思うけど、結果的にはいつもどおりの安定したラインで点をだして枠に入ったので、結構冷静に「あがりました。」と報告してきました。
TSN:強化合宿にはどんな気持ちで挑んでいましたか?
庵原:前の日の練習で波が小さく、まわりで若い子達のサーフィンを見ながらレベルが上がっているのを感じていました。でも、チャンスが与えられている中で力んでも仕方ないし、自分のホームポイントでもあるので、いつもどおりフリーサーフィンの感覚で集中してできたらいいなと思っていました。
荻野:前日は、レクチャーという程ではないですが、一緒にサーフィンを見て、アドバイスをしていました。本人は「いつもどおり」とは言ってますけど、実は結構気張っていて(笑)それなりに本気で狙っている様子でした。練習の時も良い波にのれば結構うまくいっていたので、まずまずだなと思っていたら、安定のラインで決めてきましたね。
TSN:お二人の選手とコーチとしての出会いについて聞かせてください。
荻野:最初はお客さんとして突然お店にきました。最初はテイクオフもままならなかったのに、あっという間に横に滑りアップスみたいなことをやり始めました。サーフィンを始めて約1年目、初めて出場したNSAの支部予選で、練習でなかなかできなかったオフザリップがメイクできて、何かもっている子なのかなと思っていました。
そしたら、何を思ったのか、たった1年しかサーフィンしていないのに「プロサーファーになりたい」と言い始めて。冗談で「1日8時間くらいサーフィンすればプロになれるんじゃない」と言ったら、本当に入り始めて、そこからぐんぐんと伸びました。それが最初のきっかけですね。
TSN:どんな風にコーチングがはじまったのでしょうか。
庵原:テイクオフしかできない頃から、お店にお邪魔して、何をしていいかわからないから、店長をお手本にしてひたすら真似してやっていました。
いわゆるコーチングみたいなことは、初めて支部予選に出場した時からだと思います。その支部予選がきっかけで、もっと上手くなりたい、もっと勝ちたいと思うようになりました。その時「プロになりたい」と言ったかは覚えてないですが(笑)
そのあと、アマチュアの小さな大会とかに出るようになり、全日本で優勝したくて、一緒に海に入るなかで「勝つためにどうしたらいいか」というのを自然と教えてもらえるようになりました。「勝つためにはまずは技術をあげること」と言われ、一緒にサーフィンしながらいろんな課題をもらって練習し始めました。
同時に、試合を終えると、すべてのヒートで試合に常に二人で反省会を行い、自分が乗った波に対してどうすればあと1~2点伸ばせたのか、そのために足りない技術は何か、試合運びはどうだったのか、ということをコーチと徹底的に話し合いました。そうやって課題を出してもらい、それをクリアするために、また指導してもらう、ということを繰り返し繰り返しやっていました。
プロサーファーとしてもコーチとしてもお互いに未知の世界だったから、手探りで二人三脚で、うまくなることを追求してやってきた 結果、私たちのコーチングルーツが出来上がりました。
TSN:荻野さんも元々プロとして転戦などしていたのでしょうか。
荻野:自分は支部予選、全日本を経験したくらいで、試合経験が豊富な訳ではありませんでした。元々しっかりとしたコーチングのノウハウがあったというよりは、一緒に大会を回る中で、選手・コーチという立場からお互いに学んでいったという感じです。
自分も教えなくてはいけないので、勉強して、教えて、美穂がそれに応えて。また勉強して、教えて、応えて…とその繰り返しですね。教える側と教えられる側で、お互いに競い合うように勉強をしていました。
自分はサーフボードのシェイパーでもあるので、足りない部分を板に反映させることもありました。そうやって板の形も少しずつ出来上がっていきました。
試合を回るなかで、例えば初めてのポイントのことだったり、どこに泊まるかということだったり、なにもかも初めてのこともありました。そんな時も、美穂は知り合いから情報集めたりしながら、自分で道を切り拓いていきました。度胸がありますね。
TSN:2016年12月、サーフィンがオリンピック競技になることが決まりました。強化指定選手として、代表選考の道のりを歩んでいることについて、どんなことを思いますか。
庵原:当時は、サーフィンがオリンピックになるということ自体、頭にもなかったですし、自分が強化指定選手に入ってくることすらも考えていませんでした。サーフィン日本代表の強化指定選手に第1回から呼んでもらい、今回のジャパンオープンに繋がったということは、徐々に道が切り開かれてきた気がします。
TSN:ずばりジャパンオープンではどこを狙っていきたいですか。
庵原:もちろん、五輪に出られるなら出たいという気持ちがあるので、まずは目の前にあるチャンスに向ってベストを尽くし、試合に挑みたいと思っています。そこで優勝できれば、ワールドサーフィンゲームス、その先の五輪出場につなげたいと思っています。
でも、五輪はとても狭き門でもあるので、上手くいかなければ五輪に関してはそこまでかなと思っています。今、看護師をしながら選手をしていたという経歴から別のオファーもきているので、もし選考過程で落ちてしまったら、その結果は受け入れて、別のチャンスに挑戦してみるのもありかなと思っています。また次の、新しい道を切り開いていこうかなと。
TSN:30代になっても日本のトップランナーとして活躍し続けていますが、その先で伝えたいことはありますか。
庵原:コンペの世界に限っていえば、世代はもう10代前半~半ばの若手に移り変わってきています。でも、サーフィンは本当はそうではなくて、歳に関係なく練習すればどんどん上手くなるし、うまくなれば今よりもっとサーフィンが楽しくなると思っています。だから、自分がサーフィンの技術を伸ばし続け、良い成績を残して目立つことで、それを伝えたいと思っています。
荻野:その気持ちはいつも聞いていて、応援もしています。でも、それは結果を出してこそ言えること。今のレベルのままではだめなので、最年長の選手として、サーフィンがどんどん上達していく姿を見せて欲しいと思います。そして結果を残すことで、いくつになってもサーフィンは上手くなれるということを身をもって示してほしいなと、そう期待しています。
先日、インドネシア・バリで行われたJPSA第1戦でも、並み居る若手を抑えてファイナルに進出。現在開催中のQS1000『Ichinomiya Chiba Open』にも出場し、直後には日本代表の座を賭けた『ジャパンオープン』が待っている。
平成から令和へ。まさに時代が移り変わるこのタイミングで、37歳の庵原美穂はどんな活躍を見せてくれるのか。穏やかな語り口の裏に、熱い想いを秘めた彼女の活躍に期待したい。
(THE SURF NEWS編集部)