波情報BCMの会員特典「BCM x F+ 2022年カレンダー」では2001年から2021年までのワールドチャンピオンを紹介。各月の採用写真について解説するF+つのだゆき編集長オリジナルコラム企画を、THE SURF NEWSでは特別に翌月10日頃に公開します。今回は3月を飾ったアンディ・アイアンズについて。
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F+(エフプラス)
アンディ・アイアンズは繊細過ぎた。アンディがもっと図太ければ、今も元気だったろうと思う。初めてアンディ・アイアンズというサーファーを気にしたハンティントンでのあの日、そして訃報を聞いたあの日……アンディのことを考えると、いつもそれらの日のことを思い出す。
ハンティントンでの印象はティム・カランのことと共にとても印象に残っているし、もう何度もいろんなところで書いたように思う。1995年OPプロのジュニアディビジョン。当時はケリー・スレーターの全盛期で、ジュニアといえばネクストケリーハンティングのような感じで、アメリカでその座を確実視されていたのがティム・カランだった。おそらく世界中のほとんどの人が当時は、カレンの次がケリー、その次はカラン、と考えていたと思うし、メディアでもだいぶプッシュされていた。しかし、ティムが優勝したジュニアのファイナルヒートでアンディをみたとき、ケリーのあとって、ティムじゃなくてアンディなんじゃないの? と強く思ったのを覚えているし、そこからいつもアンディのことは気にして見ていたと思う。flow創刊直後の1996年03号ではアンディのインタビューを掲載し、重ねてアンディに要注目という内容のことを1997年のflow06号に書いている。
アメリカとは言えハワイ、ハワイとは言えオアフでなくカウアイ、というまぁ、ある意味メインストリームから外れているといえば外れているし、当時は弟のブルースのほうが名前も売れていて、アンディはあとからやってきた感じだった。
97年WQS4位でクオリファイ、98年21位、99年34位、00年16位、01年10位、そして02年から04年、3年連続でワールドタイトルを取る。
ちょうどケリーがセミリタイアで休んでいた時に頭角を現し、ケリー復帰後に立ちはだかる大きな壁となった。アンディという壁が、あの第2次黄金期のケリーというモンスターを生んだ。
あの日のハンティントンで何がそんなに気になったかといえば、パワフルなレールワークと大柄な身体から出るダイナミック感、スケールの違いだ。ひと足先にスタイリッシュなエアーで売っていた弟のブルースと比較して、アンディのレールワークは実にパワフルだったのを記憶している。
後年、個人的にはこのレールワークはちょっと違うかな、と思う部分もあったけど、ジャッジはアンディのレールワークを高く買っていたと思う。また自信を持った時のイケイケ感のような勢いは、誰にも止められなかった。その根底にあったものが負けず嫌いとドラッグという危ういもので、アンディは優等生のケリーと対比されて常にヒール側の立場で語られた。初めてタイトルを取ったハワイでのバンケットの時、周囲をカウアイのメンバーに囲まれ、一種特有の雰囲気を醸し出していたのを思い出す。
本当のアンディを知る一部の人間は、彼のやさしさ、もろさを知っていたが、それを隠すような強がりが彼を窮地に追い込んだ。他人の評価は関係ない、という行動の裏には、それをとても気にし、クヨクヨし、心を痛めるアンディがいた。
ケリーと一騎打ちのハワイの時のflowのイラストの表紙でも、ケリーが白スーツ、アンディが黒スーツ。他意は全くなく、本当にたまたまそうなっただけ。しかし、アンディ本人はそれを気にした。なんでヤツが白で俺が黒なんだ、と。
03年のフィジーでは、アンディとコリー・ロペスが私のルームメイトで、このふたりの仲の良さにはびっくりしたし、アンディとミック、パーコらのオージー勢との仲の良さにもびっくりした。私はそれまでモーメンタムジェネレーション方向のサーファーと親しくしていたので、ある意味こっち側は新鮮な人脈だった。2週間ひとつ屋根の下で過ごせば、いろんなものが見えてくる。
アンディ・アイアンズという人間は、俺が勝つ、と周囲に宣言して、逃げ場をなくして自分を追い込んで勝つような、僕は死にませんと言ってトラックに飛び込むような、とても危ういところのある人だと思う。うまく回ればいいが、うまくいかなければあとがない。
アンディ3連覇のあとケリーの第2次黄金期がやってくると、アンディは陰に回った。負けることをうまく消化できないまま精神的に追い込まれ、ついにはヘロイン中毒のリハビリ中という消息を聞いたときに、あー、やっぱりそうなっちゃうか、と思った。その後少しずつ往年のパワフルなサーフィンを取り戻していくが、やはり昔のようには勝てず、うーん、厳しいだろうなぁ、と思っていた矢先にあの日を迎える。忘れられない、もうひとつのあの日だ。
それは早朝というより夜中に近かったかもしれない。国際電話でアンディの訃報を聞いた。そのままPCを立ち上げ、一報をアップしたことを覚えている。
※当時のアップ記事がコチラ
第一報はこれが日本でいちばん早かったんじゃないかと思う。その後、その日の午前中にはASPハワイとかから公式なニュースが入ってきていたけど、詳細は語られなかった。でも私は間違いなくオーバードーズだと思っていた。オピオイド……アメリカ医薬品界の暗部。
自分は強くなければならないと思い込んでいる、弱くて繊細な人間が、うまく回らなくなった時に行きつく先は想像に難くないし、それはとても悲しいことだ。アンディがもう少し弱くてダメな人間でいられたら、今もきっと生きていただろうと思う。でも、そういう人間だったらタイトルは取れていなかったのかな、とも思う。
どちらにしても、30年にわたる帝王ケリー・スレーターの時代に、ケリーの前にまともに立ちはだかった唯一のサーファー、ということに異論はないと思う。
このカレンダーの写真は2003年のフィジーのフリーサーフィンだと思う。スライド写真はきちんと管理していないと、撮影年月日を確定するのが難しい。ポートレイトは初のタイトルを取った2002年のバンケットでのもの。
私はもう一枚のカップのプレートにピントが来ているもののほうが、事実を語る写真として好きだけど、デザイナーさんはアンディの顔にピンの来ているほうを選んだ。まぁ、普通そうだね。