サーフィン業界にまた悲しいニュースが届いた。
ブルース・ブラウンの名作『Endless Summer』に出演したマイク・ヒンソンが82歳でこの世を去った。
カリフォルニア州クレセントシティで生まれ、サンディエゴのパシフィックビーチで育ったマイクは伝説的なウィンダンシー・サーフクラブの創設メンバーの一人だった。
『Endless Summer』ではロバート・オーガストと共に世界中を巡り、青・赤・白のピンラインが入ったホビーのロングボード、ゴードン&スミスのダウンレールのトリプルストリンガー「レッドフィン」は60年代を象徴するモデルだった。
更にマイクはファッションアイコンとしても注目を集め、レイバンのサングラスをはじめ、ペイズリー柄やファーを取り入れた大胆で洗練されたスタイルで時代の最先端を突き進んでいた。
『Endless Summer』の成功の後はオレンジカウンティのヒッピー文化に深く関わり、「ヒッピー・マフィア」とも呼ばれたブラザーフッド・オブ・エターナル・ラブ(Brotherhood of Eternal Love)の中心人物の一人となり、LSDによる“サイケデリック革命”を目指して活動。
1971年には、ジミ・ヘンドリックスをはじめとするミュージシャンたちをマウイ島に招いた「レインボー・ブリッジ・プロジェクト」にも関わるなど、音楽とカルチャーの架け橋にもなった。
そして、革新的なボードデザイナーとしても、サーフィンの進化に大きく貢献した。
サーフィンのスタイルとカルチャーに多大な影響を与えたマイク・ヒンソン。
彼の功績はこれからも語り継がれていくでしょう。
心よりご冥福をお祈りします。
「マイク・ヒンソンのサーフィンへの深い理解と情熱は、彼を時代の偉大な存在にした。彼はサーフィンのソウルムーブメントを推進した重要人物の一人であり、もしかすると他の誰よりもその役割を担っていたかもしれない。彼はサーフィンが音楽と深く結びついていることを理解していたんだ。ハービー・マン、デイヴ・ブルーベック、ジミー・スミスのようなジャズマンのクールさと、レイ・チャールズの汗が滴るような熱気を融合させたのがヒンソンそのものだった。1967年、私が住んでいたバックドアでヒンソンはチャールズ・ミンガスの音楽を聴いていた。彼は隣にシェイピングルームを作って、本格的な実験を始めたんだ。B.K.やタイガー・エスペレもそこにいたから、彼らに聞いてみるといい。音楽がクリームやヘンドリックス、ストーンズへと変わっていく中で、ヒンソンはサーフボードのテンプレートを小さくし、レールを薄く削ぎ落とした。ミニガンが誕生し、マウイ島に向かった。私が初めて乗ったダウンレールのボードはヒンソンがシェイプしたものだったし、“ミニガン”という言葉を生み出したのも彼だった。それが全てさ」
ハービー・フレッチャー
「人生を通してあなたのテーブルに座らせてくれてありがとう!あなたは僕たちのサーフカルチャーにクールなアイデンティティを与えてくれた!エンドレスサマーの夢を追いかける世代全体に情熱を与えてくれたんだ!最初の妻メリンダ・メリウェザー、息子のマイク・ヒンソン・ジュニア、すべてのお孫さんたち、そして最後まで寄り添ったパートナーのキャロルに愛と光を送るよ!昨夜、あなたが最後のライドに備えていたときに手を握らせてもらえたことは本当に光栄だった。スマホを取り出して、ジミ・ヘンドリックスの “Hey Baby” をあなたの耳元で流してから、おでこにキスをして『愛してる』と伝えた!どうか、これからも長く波に乗り続けてくださいね、アミーゴ!」
ジョエル・チューダー
(空海)