Bob・Cooper at Main Beach Noosa from The Glide ボブにとってサーフィンはアートフォーム(芸術表現)だったかもしれない

サーフヒーローでもレジェンドでもない「ボブ・クーパー」的サーフィン人生

サーフヒーローでもレジェンドでもない、実直にサーフィンを愛した男


ボブ・クーパーの訃報が、今月米サーファー誌によって世界に配信された。享年82歳。彼は世界チャンピオンやビッグウェーバーというカテゴリーとは無縁だ。また小波でテクニックを自己顕示するような愚者でも無い。しかし彼の完全にリラックスしたスタイルからの完璧なトリム、あご髭をたくわえたその風貌は、その個性を海や陸で際立たせた。そしてなにより彼の文才は米サーファー誌やサーファーズジャーナル誌で高く評価され、ビルダー/サーファー/ライターとしての地位を築いた。

ボブ・クーパーは1937年にカリフォルニアのサンタモニカで生まれ、15才でサーフィンを始めやがてマリブやリンコンの常連となった。まだカーディフにあったレニー・イエーターのファクトリーで修行を積み、サーフボードビルダーとしての道を歩む。1960年代には、新天地を求めてオーストラリアへと渡った最初のカリフォルニアサーファーの1人となった。

彼が書いたエッセイによると、当時のオーストラリアのサーフィンは、何もかもがカリフォルニアより10年以上遅れていて、サーフボードファクトリーではスクイーズを使わずに刷毛でレジンをラミネートしていたという。また作業工程も分業制でなく、1人のビルダーがシェープから仕上げまで一つの台で作業していたという。バイロンベイのザ・パスはまだ密林の中、ゴールドコーストではレインボウベイでしかサーフィンがされていず、バーレーヘッズは岩だらけでブレイクが早過ぎて危険だと思われていたという。さらにデュランバーには堤防が無く、スナッパーロックスの岩はほとんど砂に覆われていた。さらにヌーサまでの田舎道は未舗装で、雨が降るとぬかるみ、泥だらけになったという。

Bob and his kids (Johanna, Christopher and Caitlin) Photo by Marty・Tullemans From The Gride 私生活のボブは敬虔なモルモン教徒として人生を全うした。ボブと子供たち、ジョアンナ、クリストファーそしてケイトリン

彼は1966年にアメリカに戻るが、帰国直前に出会ったミジェット・ファレリーの妹ジェーンと出会い一目惚れしてしまう。アメリカに戻ってからも彼女と文通を続けたボブは、彼女に会いたさ一心で1969年に再びオーストラリアへと戻った。しかしその恋はボブの早とちりに過ぎず、成就することはなかった。人生ってそんなものさ、とボブは半生記で綴っている。

失恋の痛手を負いながらも、彼はオーストラリアに居続け、ニューサウスウェールズ州のコフスハーバーにてクーパーサーフショップを立ち上げた。ボードビルダーとしての功績は1967年に非対称ボードを発表している。(The Bob Cooper Blue Machine signature model, produced in 1967,Morey-Pope Surfboard 1968)また1968年にイギリスで開催されたヨーロッパサーフィン選手権で優勝している。

彼は、サーファーズジャーナルの創立者スティーブ・ペズマンのお気に入りライターで、数々の記事を寄稿している。1999年には同誌に彼自身のプロファイルが37ページに渡って掲載された。彼はビートニク世代のサーファーといわれ、業界の顔色をうかがわないシニカルな文章にもそのテイストが色濃く読み取れる。また彼は敬虔なモルモン教徒で酒や煙草を一切嗜まず、社交家でもなかったが、心温かい誠実な内面を持ち、苦境に追い込まれたさまざまな人々に暖かい手を差し伸べたという。一般的なサーファーとは全く異なるサーフィンライフを最後まで全うしたが、彼のサーフィンに対する愛情は深く、波があれば週6日はパドルアウトしたという。

彼が登場するサーフィン映画は Slippery When Wet(1958), Surfing Hollow Days (1962), Strictly Hot (1964)などがある。

(李リョウ)

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