シリーズ「サーフィン新世紀」28
デザイン&スタイルのターニングポイントとなったチャンピオンシップ。ショートボード革命と世界選手権(その一)
ナット・ヤングというと、グーフィーフッターでバックサイドの鮮やかな元CT選手のことかと思うかもしれないけれど、そのナットではない。若い世代にはブライス・ヤングのお父さんといったほうが分かりやすいだろう。そのナット・ヤング氏、1966年にサンディエゴで開催された世界選手権で世界チャンピオンを手にし、オーストラリアの英雄となった。彼の勝利によって『ショートボード革命』という言葉がサーファーの間で囁かれるようになり、その革命が現在のサーフィンにも影響を与え続けているというのがこの記事のテーマだ。
革命前夜、60年代のカリフォルニアのサーフィンは、今でいうクラッシックスタイルのロングボーディングでノーズライディング主体のサーフィンが『良い』とされてきた。その最高峰に君臨していたのがデビッド・ヌヒワという天才的なノーズライダー。そのカリフォルニアのサンディエゴで世界戦が開催されることになり、ヌヒワが世界一になるための試合という空気がカリフォルニアを支配していた。
だが、その試合へやってきたオーストラリア人たちのサーフィンは、ノーズよりもターン主体で、カリフォルニアのサーファーたちの目を覚まさせるに十分な威力があった。とくにナット・ヤングの豪快なターンは新しい時代の到来がやってきたことを彼らに知らしめた。サーフィン界に革命が起こったのである。
その1966年の世界選手権で何が起きたのかをマット・ワルショー氏のサーフィン百科事典を中心に検証してみたいと思う。
以下の文はサーフィン百科事典の世界選手権についての詳細を要約したものだ。読んでみると意外な事実がいろいろ明るみになった。例えば、ひょっとしたらこの選手権はヌヒワが勝っていたかもしれないということや、ショートボード革命と言ってもナット・ヤングのボードが9’4”とけっこう長かった等々。
(この記事の最後にナット・ヤングの世界選手権でのライディング動画が閲覧できるので、興味のある方はご覧いただければと思う)
1966年世界サーフィン選手権
Encyclopedia of Surfing より
1966年にカリフォルニアのサンディエゴで開催されたサーフィンの第3回世界選手権は(9月29日から10月4日まで開催)もっとも記憶に残る世界選手権としても知られている。メンズの優勝はナット・ヤング、ウイメンズはジョイス・ホフマンだった。
この試合では、64年と65年とは全く異なるフォーマットで戦われることになった。それまでは一度の試合で決着がついていたが、この選手権では試合を3度行い、その累積でチャンピオンを決めることになった。
当時の大統領だったリンドン・ジョンソンの記名入りの歓迎文が出場選手宛に送られた。それまで不良のスポーツと見られていたサーフィンがこの選手権のときにはライフ誌、ニューズウィーク誌、ニューヨークタイムズ紙がビーチで実況することになり、それまでのサーファーの不品行を超えての応援となった。
ニューズウィーク誌は「5〜6年前なら、このサーフィンの世界選手権は「ポットスモーカー・オリンピックにようこそ」と冷笑されて開催されただろう」と記事に書いた。(ポット:マリファナ)
手漕ぎボートのレースやタンデムサーフィンが同時に開催されてこの選手権に華を添え、ファイナルを見るために8万人もの観客が集まったという報告の記事もあった。
トップシードのジョイス・ホフマン(19才・カピストラノビーチ出身)は、最初の二つのイベントに勝ってチャンピオンとなった。2位は彼女のチームメイトであるジョーイ・ハマサキ、3位はフロリダから来たミミ・マンロー、ホフマンは1965年の選手権も勝っていてサーフィン史上初の二度の覇者となった。
カリフォルニアのアイアンマンサーファー、ピート・ピーターソンとそのパートナー、バリー・アルガウがタンデム部門で優勝。さらにパドルリレーレースでは、ラスティー・ミラー、マイク・ドイル、スティーブ・ビグラー、コーキー・キャロルのアメリカンチームが優勝した。
1966年の世界選手権を争う選手には、全米チャンピオンのコーキー・キャロルや、1964年の世界チャンピオン、ミジェット・ファレリーが含まれていたが、実際にはデビッド・ヌヒワとナット・ヤングの一騎打ちとなった。ヌヒワは17才、ハワイ生まれで現在はハンティントンに住む、品性のあるスムースなグーフィーフッターで全米ジュニアチャンピオンでもあるが、なによりも世界一のノーズライダーとして多くの尊敬を集めていた。
ナット・ヤングは18才、シドニー出身の高慢な性格のレギュラーフッターで、ハードターンを信条とする進歩的な新世代の急先鋒、かつショートボード革命の先駆者である。
最初の試合はラホヤショアーと、ミッションビーチの4フィートのレフトで行われヌヒワが10秒間のノーズライディングを決めてヤングを2位に退けた。
リベンジに燃えたカーリーヘアーのオーストラリア人は残りの2試合で勝利、ヌヒワが第2試合の早いラウンドで敗退したために第3戦の結果を待たずしてナット・ヤングの世界チャンピオンが確定した。
ヤングが使用した通称マジックサムという9’4”のサーフボードは他の選手のものよりも軽く薄く、そして後傾したフレキシブルなフィンが装着され、ヤングのパワフルなターンやカットバックを可能にさせた。2位はハワイのスイッチフッター、ジョック・サザーランド、3位はコーキー・キャロル。
ヤングは試合後のインタビューでヌヒワのサーフィンを侮辱し(「どの波も、前に歩いてそこに立つだけ、それが良いサーフィンだとは思わないな」)優勝賞品のシボレーカマロに乗って走り去った。
ヤングはそのマジックサムを友人に預け再び手にすることはなかった。というのもこの試合後ショートボード革命が勃発して、数週間でサムは時代遅れのデザインとなってしまったからだ。
その後まもなくして、オーストラリア人のサーフジャーナリスト、ジョン・ウイッチグが「今やわれわれが世界一」という記事を米サーファー誌に寄稿し、世界選手権に出場したアメリカのサーファーを「ありきたり」とか「平凡」という言葉で痛烈に批判し、同胞の選手たちには、過去10年のサーフコンペティションで最もエキサイティングでダイナミックだったと賞賛した。
解説
この世界選手権は、ショートボード革命が起こった選手権として知られているが、その他にもさまざまな波紋を広げた。
ナット・ヤングのマジックサムに付けられていたフレキシブルなフィンこそがショートボード革命の核心であったのだが、それを開発したのがカリフォルニア出身のニーボーダー、ジョージ・グリノーだった。彼はイルカの背びれからこのアイデアを思いつきニーボードに装着した。その未来的なサーフィンはカリフォルニアでは奇異に受けとられたが、オーストラリアでは注目され、ボブ・マクタビッシュやナット・ヤングがそれをサーフボードに取り入れた。
またマジックサムは9’4”(9’6”という説もある)という長さ、当時のカリフォルニアのサーフボードは10フィート前後だったようだ。したがってショートボードというほど短くはなかったにも関わらず、ショートボード革命という言葉が一人歩きを始め、サーファーはどんどん短いボードを求めていくようになり、ロングボードのファイバーグラスを剥がして短く切り詰めリシェープすることが流行する。
その影響下で、カリフォルニアのサーフボード業界はサーフィンのブームとは裏腹にロングボードの在庫を多く抱えた。それらの広告主に忖度(そんたく)した米サーファー誌は、この選手権の記事を誌面で大きく掲載しなかった。一方、読者を獲得したい米サーフィン誌は好機とみてこの選手権を大きく取り上げた。
歯に衣を着せぬ性格のナット・ヤングは優勝後に、ミジェット・ファレリーが世界チャンピオンになった1964年の世界戦を「非公式」と言い、自分こそがオーストラリアの公式な初代世界チャンピオンだと主張し、2人の間に決定的な溝を作ったといわれている。
1964年の試合は、主催者が世界戦と銘売ってシドニーで開催されたが、オーガナイズする組織が存在しなかった。ヤングが非公式と主張するのはそこだろう。しかし海外からも多くの選手が参加し世界戦と認めるのに相応しい規模の試合であった。この世界戦の開催中にISF(The International Surfing Federation)という団体が立ち上げられたという記録がある。さらにサーフィン百科事典もこの試合を1964年の世界選手権としている。
ナット・ヤングが信条としたサーフィンは、波のカールに留まり、クリティカルなポジションでターンを行うというスタイルであり、現在のショートボードコンテストにおけるクライテリア(判定基準)に近いといえるだろう。
もし1966年に世界戦がハワイのノースショアーのビッグウェーブで行われていたら、優勝は間違いなく2位のジョック・サザーランドだっただろうと、つい思ってしまうのは筆者の個人的な感想だ。
■1966年サーフィン世界選手権リザルト
MEN
1.ナット・ヤング
2.ジョック・サザーランド
3.コーキー・キャロル
4.スティーブ・ビグラー
5.ロッド・サンプター
6.ミジェット・ファレリー
WOMEN
1.ジョイス・ホフマン
2.ジョエイ・ハマサキ
3.ミミ・マンロー
4.ゲイル・コウパー
5.ジョセット・ラガーデレ
6.フィリス・オドーネル
TANDEM
1.ピート・ピーターソン/バリー・アルガウ
2.ジャック・アイバーソン/スージー・スミス
3.マイク・ドイル/サンディ・グレイ
(李リョウ)
※次回は革命後の変化を遂げたサーフィンを垣間見れる1968年の世界選手権についてお届けします(1月1日公開予定)