シリーズ「サーフィン伝説」
ジェフ・クラークはアメリカ、メインランドのビッグウェーブを象徴するマーベリクスの巨大な波を初めてサーフした男として知られている。
クラークは1957年にカリフォルニアのレッドウッドに生まれ。1966年、彼は家族と共にハーフムーンベイへと移り、そこで11才からサーフィンを始めた。
マーベリクスの波は彼の家から約2マイルのところにあり、彼は高校生のころに近くの岬からそのブレイクを見学した。1975年2月の暖かい日、17才だったクラークはたった1人でパドルアウトし、そのレフトを5本サーフした。波のサイズは10~12フィートだった。
それから15年間もの間、クラークはたった1人でマーベリクスをサーフすることになる。彼は地元のサーファーに声をかけたのだが、誰も興味を示さなかったからだ。
たった1人でマーベリクスの波に挑みつづけたクラークだが、15~24フィートクラスの波になると対応が難しくなった。彼が最初にマーベリクスで使ったサーフボードの長さは7’3”だった。田舎のファクトリーで相談しても彼らにはビッグウェーブ用のガンを作った経験がなかった。
ロングボードをショートボードのような形にしても役に立たなかった。ビッグウェーブをサーフするガンが必要だった。そこで彼はガレージを改造し、独学で10フィートのビッグウェーブガンを作ることにした。
さらにグーフィーフッターだったクラークは、ブレイクの長いマーベリクスのライトをサーフするためにレギュラースタンスを練習する。スイッチスタンスはサーフィン界ではごく稀で、過去50年間でスイッチスタンスをマスターしているサーファーはほんの少数だ。
飽くなき探究心と特訓の末に、彼はライトもレフトもフロントサイドでサーフできる稀有なビッグウェーブライダーとして成長する。彼のライディングスタイルは、スタンスが大きく背中は立ち気味だが、波を熟知したそのラインはスムースだった。
1990年の初頭、クラークは地元のハーフムーンベイ以外のサーファーにもマーベリクスを紹介しようと決断をする。その理由は一緒にサーフする仲間が欲しかったことと、彼のサーフボードをもっと知らしめたかったという理由があった。
1月22日、クラークはサンフランシスコのオーシャンビーチに向かった。その日の波はソリッドな15フィートで、パドルアウトできるチャンスは無かった。クラークはそこにいたサーファーたちに、この近くにシークレットポイントがあると声を掛けた。サンタクルーズのトム・パワーズやデイブ・シュミッドは興味を示し。サンフランシスコのマーク・リネカーは話に乗らなかった。
1時間後、シュミッドとパワーズはクラークとマーベリクスのラインナップにいた。そこで彼らはクラークのサーフィンを見て震え上がった。「彼はスーパーディープなところからテイクオフし、あの大きな暗いチューブにチャージした。彼には畏怖の念を抱いたよ」とパワーズはそのときのセッションを語った。
その18ヶ月後、サーファー誌がマーベリクスを紹介する。ダークヘアーで顎の大きなクラークを『ヘルマン:地獄の男』と呼びさらに「超シークレットスポットの番人」と形容した。
マーベリクスの名前は、その後の2年間で一気に高まった。クラークはこのポイントの代表的な立場となり、有名誌等に彼の言葉が掲載された。ローリングストーン、スピン、ニューヨークタイムス、アウトサイドそしてMTVスポーツ等で、ロサンジェルスタイムスのインタビューでは、彼は抑揚を制した声でマーベリクスを「地球上で最もラディカルな波」と表現した。
2000年中期までにマーベリクスは50本以上の映画に登場しているが、そのほとんどにクラークのライディングを見ることができる。
クラークは、1999年と2000年に開催されたQuiksilver Maverick’s Men Who Ride Mountains の試合でイベントディレクターとなった。現在、彼は地元のハーフムーンベイでマーベリクスサーフカンパニーを主宰し、サーフショップを経営する傍で、世界中のサーファーのためにサーフボードをシェープしている。
(李リョウ)
ジェフ・クラークへのコンタクト先
公式サイト:mavericksurfcompany.com
Facebook :@maverickssurfcompany @maverickspaddlesports @jeffclark
Instagram:@maverickssurfcompany @jeffclarksurfboards
参考資料:
Maverick’s by Matt Warshaw
Surfing Encyclopedia by Matt Warshaw
The Surfer’s Journal Vol2 No4