シリーズ「サーフィン新世紀」32
サーファーの胸にゴールドメダルが輝けば…新時代の幕がきっと上がる
いよいよ7月にオリンピックが東京で開催される。是非はともかく、紆余曲折を経てやっと開催にこぎつけたというところだ。もしこのまま順調に進めば、サーフィンがオリンピック種目として競われ、世界で初めてサーフィンのゴールドメダリストが誕生する。
一年間の延期があったためか、オリンピックでサーフィンが競われることにわたし(筆者)は違和感をあまり感じなくなった。数年前、追加種目として正式決定したときには、カウンターカルチャーの象徴であるサーフィンがなぜ?と首を傾げたくなったが、優勝候補に挙げられるほどの日本人選手の出場もあり、いまではどんな試合になるか観戦を楽しみにしている。
さて、話題が逸れるがアメリカの政治界には、『ロビースト』という謎の人々がいる。ロビー活動という言葉を聞いたことがあるかもしれないが、彼らはいわゆる『根回しのプロ』で、国を代表する議員ではなく、議会に彼らの席はない。議会の外の広間、つまりロビーで待って議会から出てきた議員に陳情したり、ときには公にできないような交渉を持ちかけて法案を通過させたりする。その口利き料で彼らは食っているらしい。だからロビースト。その大物のなかには莫大な収入を得ている人もいるという。
さてさて、サーフィンがどういう経緯で追加種目となったのか詳細はわからないが、誰かが誰かに働きかけてサーフィンのすばらしさを、たぶんスープに立ったことさえないオリンピック委員に伝えたのだろうということは察しがつく。そこには政治的というか、根回しというか、ロビー活動が水面下であって、普通じゃあ通らない話が通ったのではないかとも妄想してしまう。
もしそのようなことがあったとしたら、その人物はフェルナンド・アギーレだろうと、サーファーならば誰だって考えるかもしれない。わたしもその1人で、そこで彼について調べてみようとサーフィン百科事典で検索したら、彼のプロファイルがヒットした。この時期には、タイムリーだと思い『サーフィン新世紀』として紹介したい。エキセントリックな人物であることは聞いていたが、このフェルナンド・アギーレという人物はただ者ではない、恐るべしである。
フェルナンド・アギーレのプロファイル
(情報ソース:Encyclopedia of Surfing By Matt Warshaw)
フェルナンド・アギーレは、サーフィン業界で成功した実業家として知られているが、コンテストのオーガナイザーというもう1つの顔を持つ。サーフブランドで有名なリーフ・フットウェアの創業者で、サーフィンをオリンピック種目にした立役者でもある。
「彼はキャラの人、それが無ければただの人かも…」とサーフ系メディアのサーフラインは、フェルナンドを2009年の記事でそう評した。「でも、彼のド派手な衣装や豪華なパーティーに惑わされてはいけない、弁護士から敏腕な起業家へと転身したこの男は、サーフィン業界における立身出世物語でもある」
フェルナンド・アギーレは1958年生まれ。アルゼンチンのマー・デル・プラタ出身で、父親は法律家で牧場経営者、母親も法律家で心理学者でもある。フェルナンドは、サーフィンを兄弟のサンティアゴとともに12才のときにはじめた。70年代中期になると、まだ10代だったにもかかわらずアギーレ兄弟は、田舎で流行りだしたサーフィンに合わせてサーフボードのリペア業を細々とはじめる。1977年になると、ブームがマー・デル・プラタにも本格的に押しよせ、その追い風を利用してフェルナンドはアルゼンチニアン・サーフィン・アソシエーションを立ち上げ、組織を軌道に載せることに成功する。
同年、フェルナンドとサンティアゴは国内で最初のサーフショップ「アラモアナ」を開店。1984年になるとフェルナンドはアメリカへ渡り、法律の学位を取得。その翌年、サンティアゴと共にリーフ・ブラジルを起業する。カリフォルニアのサンディエゴに本拠地を置いたリーフは、ビキニを着た女性モデルの後ろ姿を広告に使った大胆なマーケティングが功を奏し、国際的に認められたブランドへと成長する。また1998年には、リーフ・ビッグウェーブ・ワールドチャンピオンシップをメキシコのトドスサントス(30フィート)で開催し話題をさらった。2000年には、リーフのサンダルは100ヶ国以上で売られる業績を上げ、フェルナンドとサンティアゴは米サーファー誌が2002年に企画した『サーフィンで最も影響力のある25人』という記事の19位にランクインした。
フェルナンドは実業だけでなく、アマチュアサーフィン界でもオーガナイザーとして、かつプローモーターとしても敏腕を発揮する。1992年にパンアメリカン・サーフィン・アソシエーションを立ち上げ、その組織の最初の代表に選ばれた。1994年には世界のアマチュアサーフィンを統括するインターナショナル・サーフィン・アソシエーション(ISA)の議長に選ばれ、現在も任期を継続している。ISAのトップに就任したアギーレは、1996年に32年間続いていた世界選手権をリニューアルし、6ヶ月ごとの開催とするワールドサーフィンゲームスをオーガナイズした。じつは、これは2000年にシドニーで開催されたオリンピックへサーフィンを参加させるために彼が考えた戦略でもあった。
この試みは、その時点では失敗したものの、フェルナンドはオリンピックへの参加の夢をあきらめなかった。彼のその構想はサーフィンの世界でも知られることとなり、さまざまな意見が巻き起こった。『フェルナンド・アギーレは金メダルを目指す』と1996年にサーファー誌は皮肉とも受けとれる記事を書いた。『彼に賛同する人はいる?』しかし2016年、ついにフェルナンドの努力が実り国際オリンピック委員会が、2020年の東京大会にサーフィンを追加種目とする正式決定をした。「この夢の実現のために22年もパドルしてきたんだ」とフェルナンドは決定直後にコメントしている。
現在、フェルナンドは他の団体、セーブ・ザウェーブス・コーリションやサーフインダストリー・マニュファクチャラーズ・アソシエーション(SIMA)でも取締役を務めている。また彼は、サーフィン業界のさまざまなイベントにも顔を出す常連としても知られて、カルフルな衣装を身にまとった姿は会場をいつも湧かせている。2013年、フェルナンドはSIMAの主催するウォーターマン・オブ・ザイヤーに選ばれた。2017年にはカリフォルニア・サーフミュージアムからシルバーサーファー・アワードを授与された。すでにアギーレ兄弟は、リーフを2005年にアパレル界の巨大企業VFへ売却している。
(李リョウ)