元世界チャンピオン、トム・カレンの父でワイメアのパイオニアサーファー
パット・カレンは3度の世界チャンピオンに輝くトム・カレンの父として知られているが、彼自身もビッグウェイバーとして名を馳せていて、1950年代から60年代にかけてノースショアーのベストサーファーだったという高い評価を受けている。奇しくもエディの試合がワイメアで開催された1月23日にパット・カレンの訃報がサーフィン界に知らされた。
サーフメディア・イナーシャのシニアエディター、アレキサンダー・ハロはパット・カレンの訃報に際してこう述べている。「パット・カレンはサーフィン界で最も尊敬され、かつ謎に包まれた人物である。彼の卓越した才能は多くの人々に崇められた。サーフィンの黎明期にすでに彼は現在のサーファーが見本とする生活を実践していた。そしてサーフィン界に深いトラックを残し、表舞台から忽然と消えてミステリアスな存在となった。(中略)サーフィンは彼にとって人生のすべてであり、そのために生きてきたが、彼の人生がいつも煌びやかで黄金に輝いていたわけではない。」
パット・カレンは1932年にカリフォルニアのカールスバッドで生まれた。父親の職業は測量技師であった。18才で高校を中退したパットはカリフォルニアのラホヤへと移りそこでサーフィンを始める。後に彼はラホヤをベースにした悪名高いサーフクラブ、ウインドアンドシーのオリジナルメンバーとなった。
パットが最初にハワイを訪れたのは1955年。2年後にワイメアベイの波に挑戦するメンバーの1人となった、しかし当時のサーフボードにはビッグウェイブをサーフするための性能は乏しく、波が大きくなるとワイプアウトを繰り返した。パットは当時ビルダーとしてはまだ未熟だったが、ワイメアのビッグウェイブをサーフするには特別なサーフボードが必要だと痛感する。そして彼はラホヤに戻るとビッグウェイブ用サーフボード作りに専心し、後に名匠と讃えられるようになった。彼の作るボードはエレファントガン(象を狩猟するための銃)と呼ばれ、いつしかガンという言葉がサーフィン界に定着するまでになる。「パットはガンを作った最初の男だ」とフレッド・バン・ダイク(ビッグウェイブスペシャリスト)はコメントしている。「オールラウンドの良いボードを作る奴は他にもいたけど、パットはA点からB点まで無事に生きて帰ることができるワイメア専用の剣を作ったのさ。」
パットはビッグウェイバーのなかでも忍耐強いことで知られていて海の中で波を2時間以上も待っていることもあった。したがってテイクオフする回数は少なかったが、必ず記憶に残るような波に彼は乗った。ボードに立ったときのライディングスタイルは、狭いスタンスで中腰、背筋は伸ばして翼のように両手を広げた。
1961年にパットはハワイでジェニーンと結婚。翌年2人はカリフォルニアへ移り、パットはダイバーやボードビルダーとして働いた。1964年に長男のトムが生まれ、1974年に次男のジョーが生まれる。1981年に波を求めてパットはカスタリカへと移住、カリフォルニアに残ったジェニーンとはそのすぐ後に離婚した。1988年にはバハの南端にあるサンホセデルカボの近くに移住。パットの家族はそれぞれの道を歩んでいるが1985年にはパットとトムはコスタリカでサーフィンをし、ジョーを含めた3人は2000年にアイルランドとフランスへ旅をしている。
パット・カレンは90年代に起きたロングボードのリバイバルのブームとは無関係の生活を送っていた。しかしサーファーズジャーナルの創立者であるスティーブ・ペズマンが『カレン・ガン・プロジェクト』という企画を立ち上げて、彼にガンの製作を依頼し再び注目を浴びるようになる。それを機に1994~1996年にはカリフォルニアを訪れてフルサイズのバルサガンを16本製作し約3500ドルで販売した。2000年には年2~3本のペースで価格10000ドルのボードを作る計画を発表した。その同年にガールフレンドのマリーが女の子を出産、パットは68才だった。その後、コロナウィルスによるパンデミックの影響もあって、住む家を追われた彼らは車での生活を余儀なくされていた。パット・カレンの訃報がネットに流れたのは、クラウドファンディングの救済中のときだった。享年90才。彼の死因は定かではないが長年持病を患っていたという。
パット・カレンへの寄付は現在も継続中である。彼とマリーの間に生まれた子供は障害を持っているとメディアは伝えている。
クラウドファンディングサイト
https://www.gofundme.com/f/friends-of-patcurren
出典
サーフィン百科事典 マット・ワルショー
サーフィンの歴史 ナット・ヤング
サーフメディア イナーシャ
(李リョウ)