(リザール・タンジュンのInstagramストーリーズより)

ミカラ・ジョーンズとの日本での思い出

F+(エフプラス)

なんかここの所意外な人の訃報が多く、う~ん、人って死んじゃうんだなぁ、と日々思い知らされている感のある今日この頃。
先日ミカラ・ジョーンズがサーフィン中の事故で44歳にしてなくなって、本当に驚いた。訃報にも驚いたけど、あのミカラがもう44歳になっていたことにも驚いた。

日本ではミカラのお姉さんでモデルだった、マリア・ジョーンズのほうが有名だったんだろうと思う。元コナン・ヘイズの嫁。マリア、ミカラ、その下にダニエルというジョーンズ兄弟で、お父さんはドクター・ジョーンズ、歯医者さんで、ロッキーポイントのビーチフロントに家があった。だからロッキーデーにはジョーンズハウスはあの辺のモーメンタムな人々のたまり場になっていた。
ミカラはもう20年以上バリに住んでいて、奥さんのエマはケリーのGFのカラニやドリアンの奥さんのリサが手掛けているビキニビジネスの商品の制作をバリで引き受けていた。

大昔にミカラがまだジュニアだった頃、日本を一緒に旅したことがある。なんで旅を共にすることになったのかは覚えていないけど、徳島空港から生見にむけてのドライブを共にした。当時まだ道も整備されてなくて、どこでどう間違えたかいまだにわからないけど、迷いに迷って四国の内陸部、本当に人里離れた山の中に入り込んでしまった。今のようにナビやグーグルマップがなく、それどころか携帯電話もない時代だ。人に尋ねようと思っても、誰も歩いていないような山奥だった。WSLのコメンテイターでも活躍していたトッド・クラインも一緒だったから、今思えばトッドがミカラを連れてきたのかなぁ、と思う。カメラマンのワンワン(故人)と小野里美之も一緒だったような気がする。
とにかく、その迷ってる最中にトッドはイライラして必要以上にうるさくして私たちに怒られ、ミカラはそれに恐れをなして黙る、みたいなことがあって強く記憶に残っている。後でその話になったときに、あれは本当に怖かった(怒った私たちも迷った道も)と笑った。シャイで口数の少ない子だったけど、ものすごく頭のいい子で、会えばニコッと挨拶するフレンドリーな子だった。

メンタワイでサーフィン中に事故にあい、大腿動脈、太もも上部に走っているぶっとい動脈を切断、失血死ということだった。
ハワイの新聞では、当日一緒にサーフィンしていたラブ・ホデル(これもまた超懐かしい名前)の話を掲載していて、水中ですでに相当量の出血をしていて、そこからボートで陸地まで30分、救急車で病院まで15-20分で、その間懸命に止血を試みたが間に合わなかったということだった。テレビニュースによると10センチの深さの傷ということなので、不運というか、どうしようもない状態だったと思う。

インドネシアでのボートで行くサーフィンは、誰もが手軽に楽しめるようになったけど、こういうリスクがあることを承知すべきだ。緊急時に間に合わないという可能性は高い。ここまでの大きなケガもそうそうないけど、もっと小さなケガだって時間との戦いという部分ではボートトリップは大きなリスクだと思う。

インドネシアでは輪廻転生が信じられているので、お葬式は人生最大の祝いの儀式らしい。20年以上もバリに住んでいるミカラなので、バリ流に送られたんだろうと思う。

(1995年OPプロジュニアの表彰式にて。一番右がミカラ)Photo by snowy

写真は何度も使っているけど、1995年ハンティントンのOPプロジュニアの表彰式の写真。左からダミアン・ホブグッド、ティム・カラン、アンディ・アイアンズ、そして一番右のオレンジがミカラ・ジョーンズ。隣のアンディの陰に隠れるような感じが、ものすごく遠慮深くてもの静かなミカラの性格を表している一枚。
っていうか、この4人のうちの右ふたりがすでに故人って、それはそれですごい写真だと思う。
改めて、人ってみんな死んじゃうんだな。

F+編集長つのだゆき

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