日本代表として2024年パリ五輪を目指す、オーストラリア出身のコナー・カラサワ・オレアリー(29)が9月下旬、千葉県一宮町で報道各社に向けた海での撮影会とインタビューに臨んだ。母明美さんとともに、終始笑顔でメローな波をエンジョイしたコナー。世界トップレベルの選手が、テレビ、新聞10数社の取材を約5時間にわたって受ける姿には、日本のファンに受け入れてほしいという真摯な思いが滲んでいた。
おとなしく、波が怖かった少年がいかにして、最高峰のCTサーファーとなり、日本代表として五輪を目指すに至ったのか。その軌跡とともに、東京五輪が彼に与えたインパクトと日本への移籍の裏側、批判的な声への思いについて、親子二人が赤裸々に語った。
「小さい波でも頑張った」
「体大きいから波小さくて大変だったけど、みんな見てるから頑張った」
海から上がったコナーは満面の笑みで明美さんに話しかけた。一宮町の通称「馬小屋前」は、腰~腹のたるめな小波だったが、185センチ、93キロのコナーはフェースの上を飛んでいくようなパンピングで一気に加速し、鋭いリッピングで大きなスプレーを何度もまき散らした。時には、明美さんと1本の波をシェアし、ハイタッチ。居合わせた一般サーファーの注目を一身に浴びたが、誰にでも笑顔を振りまく気さくな言動に気負いはない。
両親の出会いは交通事故
コナーがこの世に生を受けるきっかけとなったのは、オーストラリア東海岸を走るパシフィック・ハイウェイでの交通事故だったという。日本のプロサーファーとしてツアーを回っていた明美さんが乗った車がスリップ。そのピンチを救ったのが、のちの夫となるフィンバーさんだ。二人は数年の遠距離恋愛を経て結婚。明美さんは「ロマンティックでしょ?」とはにかむ。
明美さんは自他ともに認める負けず嫌い。子供たちにスキーや体操を教えていた20歳のころ、「流行ってるからやんない?」と友人に誘われ、湘南で初めてサーフィンをした。
「スキーって下が動かないでしょ。だから、自分がコントロールすればどうにかできる。サーフィンって波が相手で下が動くから全然できなくて悔しくてはまった。出会ってセンセーショナルなスポーツでした。楽しくて、楽しくて」
明美さんはそこからJPSAのプロになり、グランドチャンピオンまで上り詰めた。両親がアイルランドからの移民だったフィンバーさんは優しい性格だが、明美さん以上のビッグウェーバーだった。そんな両親のもと、1993年に生まれたコナーのサーフィンデビューは意外にも遅かった。
波の怖さを克服したヌーサの夕日
コナーはその理由について「波が怖かった」と正直に打ち明ける。エキスパートサーファーだった両親が行く海は、子供には過酷だった。サーフィンの魅力に目覚めたのは、9歳の時、家族で休暇を過ごしたヌーサ。小波でロングライドできた。コナーはその時を回想しながら「おもしろかった」に加えて「うれしかった」と言った。夕日に照らされたロケーションまで覚えていた。両親が愛するサーフィンを自分も楽しめたことに、この上ない喜びを感じたのかもしれない。
ただ、明美さんはコナーがプロサーファーになるとは思っていなかった。
「体が小さかったし、すごくおとなしいし、負けず嫌いな母親とは似てもにつかない。でも、15、16歳になって、ジュニアの大会で、やればできるじゃんってなってきた」
サーフィンで生計を立てようと思った時期について、コナーは「20歳ぐらいかな。そんなに早くない。18、19、20歳ぐらいで体が大きくなって」と振り返る。QSで優勝し始めたころだ。それから4年余り、あっという間にCT入りを果たした。2017年シーズンだ。
CTでルーキー・オブ・ザ・イヤー受賞
「緊張。ほんとに緊張してた。超ナーバスだった。子供の時のアイドル、ケリー・スレーターとかいて、この人たちにどうやったら勝てるのって思ってた」
そんなコナーの支えになったのは、コーチを務めた元CT選手のルーク・イーガン。「あなたは上手なサーファーだから、誰にでも勝てるから大丈夫」と、背中をさすってくれたという。レジェンドサーファーたちとの試合に次第に慣れ、半年ほどで緊張は融解。コナーはこの年のツアーを13位で終え、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞。世界のトップサーファーの仲間入りをした。
だが、順風満帆だったわけではない。2019年はCTから転落。QSでなんとか結果を残し、2020年のCT復活を決めたが、新型コロナウイルス禍でツアーは中止。2021年のCTでは思うような結果を出せず、翌年のCTに残れるかの瀬戸際、ダメならばツアー引退も考えていたころ、東京五輪が開かれた。初めてサーフィンが競技として採用されたが、当初はあまり興味はなかった。
「ワールド・ツアーに集中してたから。その方が大切だと思ってた。オリンピックがそんなにすごいってわかんなかった」
オーストラリアでの五輪中継はマイナースポーツばかりで、五輪自体の注目度が低く、コナー自身もピンと来ていなかったという。だが、オーストラリアでも、国技であるサーフィンは中継され、コナーはテレビに釘付けになった。
「オリンピックに出たい」
2021年8月、台風8号のうねりで大荒れの志田下で、オーストラリア代表オーウェン・ライトが銅メダル、若いころから切磋琢磨してきた五十嵐カノアが、日本代表として銀メダルを掴んだ。「わー、ほんとにすごいって思った。オリンピックに出たいと思った。重みを知った」。近所に住むオーウェンが銅メダルを見せてくれた。コナーの中で五輪の位置づけが変わった瞬間だった。
さらに、五輪に出たい気持ちに拍車をかけたのは、2024年パリ五輪のサーフィン会場がフランス領タヒチ・チョープーに決定したこと。コナーが得意とするチューブの大きさ、深さでメダルの色が決まる。
よりチャンスがある日本で
ちょうどそのころ、明美さんの知人から、コナーが日本代表になる気はないかと打診があった。明美さんが意思を尋ねると、コナーは「え、ぼく日本に移ってもいいの?」と驚いたという。「あんた日本のパスポート持ってんだからいけるよ」と話した。コナーはすでに、CTの2021年シーズンから、自らのジャージの両肩に日豪2つの国旗をつけていた。
オーストラリア代表になる気持ちはなかったのか。明美さんは率直に打ち明ける。「オーストラリア代表でもよかったんだけど、日本の方がよりチャンスがある。持ってるものは使って出た方がいいと思っていた。だけど、こんなに大変とは」
2022年5月に移籍を決断したが、オーストラリアから日本への移籍手続きは難航し、遅れた。今シーズンのCTを日本籍で戦うつもりだったが認められず、ISA(国際サーフィン連盟)からは、移籍を認めるのは2024年1月1日からと通告された。五輪選考を兼ねた今年のワールド・サーフィン・ゲームズ(WSG)にも出られないと判明したが、親子は「我慢します」と決意を変えなかった。
誤解が生む陰口
その間、五十嵐カノアが2022年のWSGで優勝。日本男子に追加枠をもたらし、さらに、今年のWSGでアジアトップとして大陸枠を獲得。カノア自身は今年のCTランキングで五輪出場を決めた。日本男子の五輪出場3枠中、カノアと稲葉玲王が決まり、最後の1枠となる3人目は、日本オリンピック委員会(NOC)と日本サーフィン連盟(NSA)が選考する。チョープーの経験があり、今年のCTランキングでカノア以上の成績を上げたコナーに有利なのは間違いない。
このため、「コナーはカノアが取ってきた3つ目のスポット(枠)を狙ってきた」と陰口を言われることもあるという。明美さんは誤解を解こうと説明する。「カノアくんが優勝したWSGに、コナーはオーストラリア代表でクレジットされていた。だけど、それに出てしまうと、18か月間は籍を変えられない。なので、慌てていろんな理由をつけて出なかった」
つまり、カノアが2022年9月のWSG優勝で日本男子に3枠目をもたらす前から、コナーは日本移籍を見越し、このWSG回避を決めていたという。ただ、結果的にカノアが3枠目を獲ったがゆえに、手続きが遅れたコナーに五輪出場のチャンスが残ったことも確かだ。
目標は金メダル
明美さんは「(批判について)言ってもしょうがない。私たちの準備が遅れちゃったってこと。それでも、カノアくんががんばって獲ってくれた場所に入れるようになるといいですよね」と話す。
コナーが五輪に出場できるかは来年2月に始まるWSG後に決定する。CTサーファーとして、ここ2シーズンは9位、11位と安定した結果を残し、選手として脂が乗り切った状態で迎える五輪となるだけに、コナーは目標を明確に宣言した。
「オリンピックに出て金メダルを取りたい。日本のみなさん、応援よろしくお願いします!」
(沢田千秋)
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