エディ・アイカウとホクレア号 photo: Ri Ryo ,Howzit Bradda!

ホクレア号で何が起きたのか?エディ・アイカウ伝説の新たな見解(その②)

ホクレア号で何が起きたのか?


世界的に有名なビッグウェイブコンテスト「The Eddie Aikau Big Wave Invitational」はレジェンド、エディ・アイカウを記念している。彼は転覆したホクレア号の救助を求めて荒海へパドルアウトし帰らぬ人となった。あまり語られてこなかった事故の経緯を、いくつかの資料をもとに詳細を明らかにした。認識を新たにしていただければ幸いに思う。

なぜ荒海へと出航したのか…

1978年3月16日午後6時30分、ホクレア号はホノルルのアラ・ワイ港を出発し、タヒチへ向けて航海を開始した。その目的は、計器に頼らない往復航海を達成することと、伝統的なラウハラという帆と保存食の性能を試すことだった。船長はデーブ・ライマン、一等航海士はレオン・スターリング。ノルマン・ピアナイアは計器航法士(カヌーの実際の位置を記録)、ナイノア・トンプソンは計器を使わないスターナビゲーションでカヌーを操縦した。ピアナイアは計器を使ってナイノアのナビをチェックし、ナイノアが大きくコースを外れた場合のみ修正することにしていた。その他の乗組員を合わせると総勢16人で、その中にエディ・アイカウも含まれていた。

沿岸警備隊の報告書によると、出航の日は快晴で北北東からの30ノットの貿易風、北東からの8-10フィートのスウェルというコンデションだった。強風警報が出ていたが、天気は午前8時から24~36時間以内に回復するという予報だった。ホクレア号は以前にもこのような状況で航海したことがあり、キャプテン・ライマンによると「出発時に求めていた天候」で、航海を早く進めるための決断だった。ホクレア号はエンジンなどの動力を備えていないために、風を巧みに利用しなければならなかった。

遭難したホクレア号の辿ったルート、航空機に発見されたのは奇跡だった。archive.hokulea.com より

ウィル・カイセルカの「ア・オーシャン・イン・マインド」は、カヌーがオアフ島を出航して5時間後に何が起こったのかを要約している。

波は高かったが、ホクレア号は以前にもそのような海を乗り越えていた。しかし、今回は1ヶ月分の食料と物資を大量に積んでいたため、予想外の重量が船体にかかり、操縦が難しくなっていた。船を風下に向けると負担は軽減されたが、波が舷側を越えて押し寄せ右舷を満たし、風下側の船体が沈みだした。やがて帆が強風に押され重みが偏り、バランスを失ったカヌーは回転をはじめて航行不能となった。アラ・ワイ港を出発してから5時間後、ホクレア号はオアフとモロカイ島の間で転覆してしまった。

その夜中、16人の乗組員は破壊された船体にしがみつき、風と波から身を守るためにできる限り助け合った。やがて夜が明けた。航空機が頭上を飛ぶが、誰もホクレア号に気づかなかった。 しかもカヌーは流されて航空ルートからも離れ、発見される可能性は低下していた。

乗組員の1人スネーク・アヒーが助けを求めようとサーフボードでカヌーから離れた。低空飛行の飛行機が現れたとき、彼はこのカヌーが発見されたと思った。しかし、それは間違いだったことがやがて明らかになった。

エディ・アイカウはラナイ島へサーフボードで救助を求めに行こうと考えた。熟練のウォーターマンである彼は、オアフ島のワイメアベイで多くのサーファーの命を救っていた。ナイノアは彼と一緒にパドルして、サーフボードで波に乗れるかを試した。エディは一人で行く決断をした。転覆したカヌーにしがみつく乗組員は、彼が遠洋を航海した古代の人たちのように波に乗る姿を黙って見送った。それが彼の最後の姿となった。

通信機の無いカヌーだったが奇跡は起こった、しかし…

乗組員のキキリ・ヒューゴは、ホノルル・アドバタイザーのインタビューでこの事故を振り返っている。
私たちは死にかけていました。風と水にさらされて低体温症を起こし疲労困憊でした。エディがパドルで出発したとき、本当に彼ならやり遂げられると思った。でも、私たちはダメだろうと思いました。それくらい絶望的な状況でした。しかし運命だったのです。午後7時15分か7時30分ごろに、コナ発の最終便が出発の遅れを取り戻そうとルートを修正しているときに、カヌーから救助を求める発炎筒の光を発見したんです。奇跡でした

事故後にオアフ島へ曳航されるホクレア号 archive.hokulea.com

その飛行機はカヌー上空を旋回し、着陸のときに使う灯を点滅させて合図を送り、沿岸警備隊へ通報した。パイロットの報告により沿岸警備隊はヘリコプターを派遣し、午後9時27分転覆したカヌーを発見した。場所は北緯20度53.5分、西経157度36分 – オアフのマカプウの南約30 マイル、モロカイ島のラアウ岬の南西約23 マイル、ラナイ島のケアナパパ岬の西約35 マイルだった。

エディを除く全ての乗組員がカヌーと一緒だと報告された。沿岸警備隊は直ちに捜索救助活動を開始、その後、民間航空機、民間船、アイカウ家によってチャーターされたヘリコプターが加わった。

3月18日午前1時20分、沿岸警備隊の船ケープ・コーウィン号が転覆したホクレア号に到着。ホクレア号は北緯20度53.5分、西経157度39分、ヘリコプターが最初に目撃した場所から西に約2マイルほど漂流していた。転覆したカヌーをホノルルまで曳航する試みは、日の出まで待つことになった。

午前5時11分、ハワイアン航空のパイロットによってモロカイ島の南西約10マイルで発炎筒の光が目撃された。(おそらくエディかと思われる)沿岸警備隊のC-13機がその地点に派遣されたが、残念ながら何も見つけることはできなかった。その朝、カヌーはオアフ島のドックへと曳航された。

午後3時20分、民間のヘリコプターが、ホクレア号が発見された場所の南西約5.5マイル、北緯20度47分、西経157度41分でエディのサーフボードを発見したと報告したが、海が荒すぎてボードを回収することはできなかった。沿岸警備隊は3月23日までエディの捜索を続けたが彼を発見することはできなかった。

ホクレア号に刻まれたエディのプレート photo: RiRyo

ナイノア・トンプソンが事故後の心境を語った。「エディの死後、我々はこのプロジェクトを中止することもできました。しかし、エディは、先祖と同じようにカヌーで航海して島々を発見するという夢を持っていました。もし我々がやめれば、彼の夢は叶えられません。ときどき部屋にあるエディの写真を見て、彼を思い出します。彼はライフガードとして人々の命を守るために自らを犠牲にしました。エディはいつも人のために世話をしていました。溢れるような情熱を持った彼は、私の心の支えでした。彼は「ハワイの伝統を復興させよう」と言っていました。この悲劇は、私たちの冒険がいかに危険であったか、精神的にいかに準備不足であったかも気づかせてくれたのです

この事故は、ポリネシア航海協会にとって安全への認識を高めることになった。それ以降、カヌーは無線連絡が取れる護衛船なしで航海することはなくなり、ハッチは防水性となった(関係者のチャド・ベイバヤンはホクレア号の舷側壁を高くし、ブームを強化するために木を積層したと説明した)。安全チェックリストが開発され、訓練プログラムはより厳密になり、乗組員の安全が航海準備における最優先事項となった。現在もアウトリガーカヌーによる遠洋航海は、エディの意志を継いで、ポリネシアの文化を守ろうとする人々によって続けられている。

ホクレア号の伝統航法は変わらないが、安全面は大きく改善された photo:RiRyo

参考資料 archive.hokulea.com、Encyclopedia of Surfing、映画 Howzit Bradda!

(李リョウ)

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