日本のサーフィン界をつなぐ存在になりたいと願う大原沙莉 Photo:Chiaki Sawada

「サーフィン界の橋渡し役になる」BB世界チャンプ大原沙莉、引退後に描く未来

日本人で初めて、2度、ボディボードの世界チャンピオンに輝いた大原沙莉(29)が現役を引退した。まだまだ世界トップレベルの実力を有しながら、コンペティションの第一線を去るのは、ボディボードから離れた場所で、新しい自分を見つけるため。結婚や後輩の育成を見据えた時、選手を続けながら中途半端な気持ちでは、いたくなかったからだという。

2時間のインタビューで、「ずっと周りに流されてきた。本当の意味で1人のボディボーダーになり、自ら目標を持ったのは最近だった」と、トップ選手らしからぬ繊細な一面や、期待されながら日本人初の世界チャンピオンを逃した時の心境を赤裸々に告白。

ショートボードでUSオープンを制し、東京五輪の代表にもなった弟、洋人の存在も、ずっと刺激になっていたという。引退後は、流暢な英語を活かしたMC業などで、同じサーフィンであるショートボード、ロングボード、ボディボードの業界を繋ぎ、その垣根を取り払う存在になりたいと願う。「あの弟がいる私にしかできないこと」だから。

小池葵プロとの出会いで開花

引退を決めた心境を語る大原沙莉 Photo:Chiaki Sawada

サーファーだった両親のもと、7歳で千葉県一宮町に移り住んだ。小学校に上がり、親から「サーフィンかボディボードどちらかを始めなさい」と言われ、「特にやりたいわけじゃなかったけど、安全そうだから」と、ボディボードを選んだ。弟の洋人はすぐにサーフィンにはまり、毎日、海に出ていたが、沙莉は違った。

「足が痛いとか言い訳しては、1人で家に帰って漫画読んだりゲームしたりテレビ見たり。5年生ぐらいまではできる限りやりたくなかった」

5歳の七五三祝いでの家族写真(本人提供)

転機となったのは、千葉・御宿の海での小池葵さんとの出会い。当時、プロボディボーダーとして第一線で活躍していた小池さんに偶然、声をかけられ、所属していたショップを訪ねた。

「ボディボードの友達がいなかったし、学校もつらい時だった。でも、ショップに行くと、同じ年代ぐらいの女の子のボディボーダーがすごく多くて、ボディボードって楽しいって思えた。当時、学校で友達とうまくいかないってことがなければ、ボディボードを続けてなかったかもしれない。本当にタイミングでした」

11歳でハワイ・ノースを経験

以来、毎日、海に入るようになった。「お姉さんたちがやってる華やかな技をできるようになりたい」との一心で、みんなが出ている試合にも出るようになった。出会いから数カ月後、小池さんはいきなり、沙莉をハワイ・ノースショアでの1カ月間の合宿へ連れて行く。その才能を見抜いていたのだ。若干11歳で冬のノース。

11歳で初めてのハワイ合宿。小池葵さん(右端)と沙莉(右から2人目、本人提供)。

「波は基本、頭オーバー。怖かったけど、それよりも、合宿も海外も外国人のボディボーダーも初めてで、世界レベルを、あんなに早く経験できたのは大きかった。あの合宿がなかったら、もしかしたら、もっともっと低い目標から始まっていたかも。とにかく、あの当時は、これまでのボディボード人生で一番伸びたんじゃないかってぐらい、どんどんうまくなりました」

中学3年でプロの試合を制す

沙莉はめきめきと頭角を現し、中学3年で国内プロツアーの鴨川戦で初優勝。「当時のシキタリみたいな感じで、全日本選手権で優勝してからプロになるみたいな流れがあって、この時はプロ宣言は保留しました。その後、福島の試合でも優勝して。1週間後に全日本で優勝して、やっとプロ宣言しました」

猛スピードで上達した中学生のころの沙莉(左から2人目、本人提供)

あっという間に国内トッププロの仲間入りを果たしたが、飛躍的に向上した実力とは裏腹に、自らの意志はまだ醸成されていなかった。

「葵さんみたいになりたいとか、こういう技ができるようになりたいとかはあったけど、大会で優勝とかプロになるとか世界チャンピオンとかは、みんなが目指してるから『じゃ、私も』みたいな。ボディボードを始めたのも親に言われたからだし…。本当はJK(女子高生)やりたかった。でも、『世界で戦うなら通信制の方がいいよ』って親に言われて通信制高校に行った。自分からこうなりたいというより、誰かを追いかけて練習してた」

初めて味わう心底からの悔しさ

2011年、16歳から世界ツアーに参戦。20位ぐらいから始まった世界ランキングは年々上がっていたが、「自分は世界チャンピオンにふさわしくないって、ずっと思っていた」という。「外国人は大きな波に乗れて、大技ができて当たり前。自分は英語のインタビューもままならないし、友達もいないし、その地位にふさわしくないって」

世界ツアーで上位入賞しても世界チャンピオンをイメージできなかったころの沙莉(左端、本人提供

そして、2018年、同じ年齢の鈴木彩加さんが日本人初のボディボード世界チャンピオンに輝く。「私のボディボード人生と違って、世界チャンピオンになるための野望を持って、練習や英語を早い段階からちゃんとやれてた子」だったという。

沙莉はこの時初めて、心の底からの悔しさを味わう。

「周りの人は『沙莉が絶対に日本人で最初のチャンピオンになる』って言ってくれてたのに、結局うじうじしてたら、さっと取られちゃった。めちゃ悔しかったです。その時に変わらなきゃいけないって、やっと気づいた。人の後ばかり追いかけてたから、誰も成し遂げたことないことの想像ができなかった。うじうじしていないで、ちゃんと自分で道を切り開かないといけないんだって。本当に世界チャンピオンになりたいと思ったのはこの時」

ボードも心も一新

世界チャンピオンとなった2019年、チリ・イキケでの試合で躍動する大原沙莉(本人提供)

翌2019年、海外の波に合わせてボードを変更。押し込めていた心のタガを外したこと、新しいボードを手にしたことで、沙莉のボディボードは、ネクストレベルを切り開いた。「それまで成長速度が鈍化してたというか、伸び悩みというか、あまり向上してなかったけど、ボードの力を借りて、行きたい場所に行けるようになった。外国選手は滞空時間がめちゃくちゃ長くて、私はあんな風には乗れないと思ってたけど、ボードを変えたことで、私でも海外の大きな波に負けないで乗れるって信じることができて、さらにボディボードが好きになった」

この年、有言実行で世界チャンピオンの座を手にした。それだけでは満足せず、「完全に沙莉がチャンピオンだって言わせるぐらい、うまくなりたい。日本人初の連覇を達成したい」と、挑んだ2020年、新型コロナウイルスによるパンデミックが世界を襲った。

コロナ禍で見つめた自分の価値

コロナ禍で試合がない中、地元の海で練習する沙莉(本人提供)

ツアーは中止。沙莉は遠征先から帰国し、一宮町に戻った。ようやく心技体が一致し、ボディボードの頂点を極めようと、みなぎっていたやる気は行き場を失い、塞ぎ込む日々が続いた。

「25歳で脂も乗り切って、どんどん進化するぞってタイミングだったんで出鼻をくじかれた、みたいな。久しぶりに日本でゆっくりしていると、私は試合で勝つ以外の価値がないんじゃないかって思ってしまって。試合に勝ってるからみんなサポートしてくれてるけど、試合がなかったら、自分って何もなくて。インスタ見てると、他のプロは試合以外でもイベントやったり活躍してたのに」

走り続けた選手生活の小休止。自分は選手以外に何ができるか、自問自答する中で「後輩の育成」が心に浮かんだ。ただ、「2つのことを同時にできない性格」なのは分かっていた。「人を育てるなら中途半端にはできない。試合で『大原沙莉勝てなくなったね』って言われるのもいやだから、区切りがいいところで選手をやめて、後輩を育てようと思った。そろそろ違う自分を見たくなったんですね」

真のボディボーダーとして

コロナ禍が明け、2022年からツアー復帰。引退はもう一度、世界チャンピオンになってからと決めていた。「心からチャンピオンになりたいと思うと、プレッシャーを感じちゃったり、初めての感覚がたくさんあって。ボディボーダーとして真に生きたのは、本当にここ数年でした」。2023年、再び有言実行で、2度目の世界チャンピオンに返り咲いた。

2023年、ブラジル戦とチリ戦での優勝トロフィーを手にする沙莉(本人提供)

最後と位置付けた2024年のツアーは、後輩たちに、世界で戦う姿を見せるために回った。コロナ禍で日本にいる間、スポンサーの協力で英語力を鍛え、海外選手の友人も増えていた。「コネクションの引継ぎというか。英語が喋れるようになると、海外のボディボードの実態とか状況もすごく知れるようになって。海外選手も、後輩に対して『沙莉の友達だから』って仲良くしてくれたり、どうやって情報を得るかとかもアドバイスしたり、後輩のために回った1年でした

ポルトガルのマデイラ島で海外選手たちとポーズをとる沙莉(右端、本人提供)

選手としての最終戦に選んだのは鴨川のマルキポイント。15歳で初めてプロの試合で優勝した場所だった。「後悔はほぼないですね」と話し、日本選手として圧倒的な記録を残せた理由は「環境」と言い切る。「ボディボード1本に集中できる環境を作ってくれた家族には本当に感謝しているし、恵まれてたと思う」

「私にしかできない橋渡し」

共に世界で戦ってきた弟もいた。「もちろん刺激になった。奴が頑張ってるから私も頑張ろうとか。やっぱボディボードの業界は小さくて、マイナースポーツだから、私の方が数字は弟よりすごいけど、注目のされ方は違った。でも、嫉妬はなくて、私は私の世界で頑張ってきた」

2023年11月、志田下でのLATEWRAPファミリーカップでMCをこなす沙莉(本人提供)

引退後は、この環境を最大限生かすつもりだ。「弟がいるからサーフィンの情報も入ってくるし、大原洋人のお姉ちゃんとしてお声かけてもらったり、けっこうおいしい立場なんです。ボディボードだけだとどうしても、その世界しか知らないみたいになりがちだから、私がサーフィンとの橋渡し的な存在になれたらなって。それでボディボードの認知も上げて、ゆくゆくはオリンピック競技を目指すとか、それができるのは私だけかもしれないって思ってます!」

自分の色を見つけに行く

最後に、子供たちに向けてのメッセージを求めると、「何かを犠牲にしないと何かは生まれない」と明言。「私は青春を犠牲にしてボディボードをしてきたから、今がある」と話す一方で、ボディボード一筋だった選手生活を振り返り、「人が集まるイベントとかは積極的に行った方がいい」ともアドバイス。

2019年8月、いすみポイントで子供たちを指導する沙莉(右端、本人提供)

「ボディボードを離れた時に何もなくなってしまうから、今のうちに自分が何が好きか見つけた方がいい。私は全力でボディボードをしてきたから、これまで得られなかったものを取り戻しに行きたい。他の子たちは選手生活以外の特色も持ってて、自分の色がある。私はすごく遅いとは思うけど、これから自分の色を見つけて、自分の意志で、ボディボード以外の自分の道を開いていきたい」

人生の伴侶とともに歩き始めることも、その一つだと教えてくれた。ボディボード界の女王としての第1幕は終演。沙莉の人生第2幕は、どんな色に染まっていくだろうか。

「引退後も予定がいっぱい」と話す沙莉 Photo:Chiaki Sawada

(沢田千秋)

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