池上凪(なぎさ)さん(32)は、パラサーフィンの世界チャンピオンだ。その道のりは、障がいがある女性が懸命に努力し世界の頂点に立った、という美談では語り尽くせない。
高校へは行かず、10代半ばから、きれいじゃないものもたくさん見て、難病と大事故を克服し、3児の母となった。わずか32年だが、ジェットコースターのような人生で得た強さと優しさが、彼女を海へ駆り立てる。2028年ロサンゼルス・パラリンピックでパラサーフィンの競技入りが期待される中、そこでの金メダルを「恩返し」の集大成と位置付けるから。
「今日もぼーっと生きちゃったな」「なんのために生きてんだっけ」。そんな人たちに読んでほしい、右手が不自由な女性サーファーの物語。
16歳で結婚、19歳で出産
出身は千葉県浦安市。中学卒業と同時に親元を離れ、奈良県へ向かった。
「この時期に傷つけた人があまりにも多いなって。できれば話したくない部分でもあるけど、いろんな人に助けてもらった分をお返ししなきゃって思いで取材に応じている」
10代前半で「言えないようなお仕事」に手を出した。「グレちゃって、普通の中学生の生活はしてない状態。両親から絶縁みたいなこともあって。稼いだお金10万円だけ持って、あとは全部友達にあげて、更生したくて、アメリカ帰りのいとこと一緒に奈良で極貧生活を始めた」。時給680円のたこ焼き店で働き、客だった男性と16歳で籍を入れた。今のパートナー(37)だ。
6万人に1人の難病
19歳で長女(12)を産んで半年後、膠原病の一種「成人スティル病」を発症する。「ある日突然です。6万人に1人がなる難病で、高熱が続き、関節が痛くて、自分で歩けない、食べられない、トイレにも行けない。布団の重さも痛かった」。長女の1歳の誕生日に一時退院できたが、呼吸困難に陥り、再び無菌室などで3カ月間入院した。
ステロイド服用による通院治療の許可が出て、退院できた約1カ月後、友人ら15人とバーベキューへ向かう途中、事故は起きた。
交通事故で右腕切断の危機
2012年8月5日、大阪府内の高速道路で、6人乗りのエルグランドの右後方タイヤがバースト。3回転以上転がり、運転席側を下にして着地、バウンドしながら側壁に衝突した。凪さんは運転席の後ろに座っていた。
「回転の勢いで割れた窓ガラスから腕だけ出ちゃって、着地してからギーって壁にぶつかるまでの間、右腕が地面でガリガリガリって削れた。全部覚えてます。腕の内側に手のひらがべったりくっついちゃってて。ああ、これやばいやつだって」
現場に駆け付けたレスキュー隊は、出血多量で重傷の凪さんを安全に車内から出すため慎重に策を練っていた。そこへ別の車に乗っていたパートナーが走ってきて「早く出せ!」「凪!」と叫び、素手でフロントガラスを割り、凪さんを助け出した。
搬送先の手術台の上。右腕の切断に同意するサインを求められ、痛みに悶えながら「子供がいるから残して」と大暴れした。目覚めた時、医師は告げた。「一応、残したよ。でも、そんな手が受け入れられなくて、やっぱ切断がよかったという人もいるし、治療の過程で自殺しちゃう人、うつ病になる人もいるよ。覚悟はいい?」
奈良県内の病院で治療が始まると、覚悟が足りなかったと絶望した。
2年間で11回の手術
「手首とか腕の血管、骨、腱、皮膚、脂肪が全部なくなっちゃってて。15時間の移植手術をした後、先生が言ってたのはこういうことなのかって。ベッドの上で血管がつながるまで、心臓以外動かしちゃいけない。ギブスで腫れを押さえつけられた腕に感じたことのない痛みが24時間続く。心は走り出したいのに、体は動かせない乖離を受け止められなかった」
2年間で外科手術7回、形成手術4回。膠原病のステロイド服用を続けていたため、医療チームは免疫低下による感染症に細心の注意を払いながら治療を続けた。皮膚移植は本来、太ももの裏の皮膚を使うことが多いが、若い女性であることを考慮し、目立たないよう足の付け根から採取。足の甲から皮膚と腱を取る際も、足の指が曲がるよう、ぎざぎざに縫うZ形成で縫合した。
「もし太ももの裏から移植していたら、水着になるのもいやだっただろうし、日焼けしちゃいけないから、サーフィンをしていなかったかもしれない。Z形成じゃなかったら、右足も踏ん張れなかった。ほんとに小さな小さな配慮が私を今の状態にいざなってくれた」
「サーフィンしたいな」
膠原病の罹患前、生まれたばかりの長女の面倒をみながら、家事をすべてこなし、ガソリンスタンドで働き、3時間睡眠の生活。「すべてこなそうとしたことが仇になって病気の原因にもなった。病気とけがをしてる間、もう無理はしない、自分を大事にしようと決めた。助けてもらった命をちゃんと使いたかった」
折しも、幼いころからかわいがってくれた祖父がガンを宣告された。2018年、長女とお腹に長男(6)を抱え、祖父がいる千葉県いすみ市に引っ越した。祖父の最期の時間を共にする中で、サーフィンへの思いを強くする。
「海が好きだった両親に凪って名前をつけてもらい、いろんなマリンスポーツをしたけど、サーフィンだけはやらせてもらえてなかったなって」。次女(4)が生まれてから本格的にサーフィンを開始。2019年春のことだ。
2019年から本格的にサーフィン
右腕は左より2センチ短く、手首は動かない。テイクオフの時、右手は人差し指の付け根だけをボードについて立ち上がる。パドル時は、固まった右手の手首と同じ角度で左手も入水。「支障はない」という。
伊豆の元プロサーファー澤井革氏に師事しながら、毎朝4時に起き、ホームのサーフスポット「夷隅ポイント」までランニングし、波チェック。3キロ走った後、日が昇ると海に入り、家事、仕事のため午前7時には上がる。
千葉東から3年連続で全日本
サーフィンを始めてわずか2年の2021年、トップレベルの選手が集う千葉東支部から全日本選手権に出場。以来、昨年まで3年連続で出ている。普段からプロサーファーらに混ざって、頭サイズの波やチューブに挑戦。ずっと健常者と同じ土俵でサーフィンをしてきた。
「劣等感」に突き動かされ
彼女を突き動かしていたのは「劣等感」だったという。
「主治医の先生から『僕が作ったその腕、作品だから、大事にしてね』と言われた。私の人生、たくさんの奇跡がつながって助けてもらったのに、誰にも還元してないなって。生かされてるのに、それを活かしきれていない。何かしていないと、その劣等感みたいなものに本当に飲み込まれそうだった」
転機は22年夏。海で「パラサーフィン出れんじゃないの」と声をかけられた。
「自分が障がい者だっていう認識をとうの昔に忘れてるライフスタイルを送ってたし、何も成し遂げられてないっていう衝動に駆られてた時期でもあった。パラは障がいがないと出られない狭き門。そのチケットがあるなら出ないわけにはいかないでしょって」
脊椎損傷のサーファー仲間のために
時を同じくして、50代のサーファー仲間、カズオさんが海から姿を消した。「夷隅ポイントに毎日入れるようになった時から、1人では海に入れられないと、心配して必ず一緒に入ってくれていた。夏は朝4時半から。『凪ちゃんと海に入るのが楽しみなんだよ』って言ってくれて。毎日毎日、おはよう、波いいねって言い合って」
風の噂で、カズオさんは仕事中の事故で脊椎を損傷。サーフィンができなくなり「海も見たくない」と言っていると聞いた。「カズオさんがいないと、こんなにサーフィンつまんなくなるんだって気づいて。会いに行きたかったけど、ご自宅に押し掛け、トントンってドア叩いて『大丈夫ですか』なんて、会いに行けるレベルの人間になってないなって」
カズオさんの耳に入るよう、ローカルたちに吹聴した。「私、世界戦出るから。絶対いい波乗って優勝するから。そうカズオさんに伝えてください」
プレッシャーはねのけ世界チャンピオン
2023年12月、世界選手権の会場、米カリフォルニア州ハンティントンビーチは、頭~ダブルサイズの波で、名物のピアから反対側へ川のような流れがあった。
「一般の試合とか出てたし、手があるから『乗れて当然でしょ』『楽勝でしょ』って言われて、プレッシャーがすごかった。でも、サーフィンは波に乗れないと勝てない。楽勝なんてないよって思ってた」
他の選手がインサイドでライディングを試みる中、ひとり沖へ出て、波に乗り、ビーチを走って、また沖へ出て、乗った。障がいがあること、子供がいること、体が小さいこと、仕事が忙しいこと、すべてに言い訳せず、サーフィンに打ち込んできた努力が、世界一の栄冠を引き寄せた。
「俺もリハビリがんばるよ」
カズオさんの自宅を訪ねると、奥さんが美味しい手料理を用意して待ってくれていた。カズオさんに優勝メダルをかけると、「すごいね」「俺もリハビリがんばるよ」と言ってくれた。そして、自らの足で歩き、ビーチクリーンに参加するようになった。
2人のやり取りを知ってか、夷隅のローカルたちにも変化があった。それまで4年間、「毎日入ってるあの子」と呼ばれていたが、「凪ちゃん」と呼んでもらえるようになった。「いすみの誇りだね」と言ってくれる人もいた。
サーフィン界の障害者雇用
「私の劣等感がちっさくなって、ゼロに近い状態まで清算された。やっとここからがプラス。これからは自分のためだけじゃなく、誰かのためにも行動したい」
昨年3月、厚生労働省は障害者雇用促進法が義務付ける一定割合以上の障がい者雇用をしていないとして勧告の上、改善がなかった5社の企業名を公表。うち1社は、サーフィン関連商品販売を担う有名企業だった。
「サーフィン界隈は障がい者の雇用とか興味がないんだなっていう認識は、私の中に正直あって。じゃあ、そういう人たちに役に立てるような存在になるような何かアイデアを考えないといけないなって」
見据える2028年ロス五輪
見据えるのは、2028年ロサンゼルス・パラリンピック。パラサーフィンの初採用が有力視される。凪さんは、知的障がいがあるアーティストとコラボレーションしたサーフボードやサーフアイテムで、パラリンピックに出る構想を計画中という。
「パラリンピックの金メダルは、多くの人に、影響力を持って、こんな活動とこんな人たちが世の中にいるよっていうことを知らしめられるアイテムになると思う。さらに、金メダルを目指す姿勢そのものが、いろんな人に色々な影響を与えられるかな。サーフィン界でも障がい者が役に立つって振る舞いを私がする必要があると思っています」
劣等感を使命感に変え、今日も海へ向かう。
(沢田千秋)