写真:ミッキー川井。永遠の波乗り少年 photo by Ryo Ri
「誕生日おめでとうございます!」大きな歓声がホテルオークラのアスコットホールに響き渡った。2018年3月5日、日本のサーフィンの草分けで、現在もプロサーファーとしてのプライドを保ちつづけるレジェンド川井幹雄氏の古希(70才)を祝うパーティーが盛大に開かれた。
パーティーには関東圏だけでなく、はるばる九州からもこの日のためにサーファーが駆けつけた。会場はアロハな空気が満ちて、列席者全員が笑顔で川井さんの誕生日を祝福した。
パーティーはまず川井さんの挨拶から始まり主賓の祝辞、乾杯そして食事のあとにはリメイクされた幻の映画「STONE BREAK DREAMS」の上映。そして川井さんのガールフレンドが所属する東京フラミンゴによる歌から、大久保友美さんのウクレレ演奏などで大いに盛り上がった夜となった。列席者のなかには日本のサーフィン界を支えてきたレジェンドたちの姿が多く見られたが、それでも堅苦しくなくパーティーの空気が終始和やかだったのはやはり川井幹雄の功績や人格へのリスペクトからだろう。真冬でも素足でサーフィンを楽しむ川井さん、これからもお元気で!
さて、ここで川井幹雄氏の略歴をEncyclopedia of Surfing を基に改めて紹介しよう。
川井幹雄(通称ミッキー)
1948年千葉県鴨川市に生まれる。子供の頃に父親からボディーサーフィンを習う。TVにてサーフボードに乗ったサーフィンの存在を知り、エアーマットで練習を始める。(立ち上がれるほどに習熟した)アメリカ人のサーファーが鴨川を訪れたときにそのサーフボードを借りて初体験をする。1965年に鴨川で日本インターナショナル選手権が開催され、川井はサーフボードを借りて出場し日本人デビジョンで優勝。さらにインターナショナルデビジョンでは3位となる。米国サーフィンマガジンがこの試合を取材し「ミキオはレギュラースタンスでテイクオフしグーフィーにスイッチする」と記している。数年後川井は千葉の有名なリーフブレイク松部や新官を開拓。また九州や北海道へも足を伸ばして未知のサーフポイントを探索した。1969年にはハワイに渡航しマカハ・インターナショナル選手権に正式に招待され出場を果たす。ハワイのレジェンド、ジョージ・ダウニングからプレーナーを譲り受け、帰国後サーフボード・ブランドを立ち上げた。
川井幹雄の全日本選手権での優勝回数は10回。また日本で初めて開催されたプロコンテストの初代優勝者でもある。シェープしたサーフボードは通算で一万本を超えている。JPSA最高顧問、鴨川サーフィンクラブの会長も務めている。
(李リョウ)
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