シリーズ「サーフトリップのすすめ」No. 8
世界のサーフディスティネーションを決定づけた二つのメディア
インドネシアが「波の宝庫」として知られているようになったのはそんなに昔ではない。そもそも、この国でサーフィンができるなんてインドネシアの人も知らなかった。たとえばバリでは海は悪魔が住むところと恐れられていたし、ニアス島のネイティブたちは津波の被害を受けないように高台に住処を建て、海には近づかなかった。したがって古代ハワイアンのような、大昔にサーフィンをしていたという記録はインドネシアには無い。だから地球の歴史で考えると、数千万年も前から、インドネシアのパーフェクトウェイブは誰にもサーフされることなくブレイクし続けていたということになる。
さて、バリの波がサーファーに発見されて半世紀が過ぎている。たった50年余りで、サーファーがアジアの島国へどっと押し寄せるようになったわけだ。その引き金となったのは16mmフィルムで撮影された映像や、プロの写真家が撮ったサーフィン雑誌だ。このようなメディアはインターネットとは違ってタイムラグがあったが、発信する側は魅力的に情報を発信し、受ける側もロマンや情熱をかき立てられたように思う。とくにインドネシアというサーフデスティネーションはアジアということもあり、少しミステリアスでサーフエクスぺディション(探査)という言葉がぴったりの場所なのだ。そのiPhoneがまだ無い時代に、世界に向けて発信されたサーフセッションをご紹介したい。
金鉱を掘り当てたオーストラリアの映画撮影チーム
インドネシアのサーフィンの歴史は、ウルワツの発見により「本格的に」スタートした。ナット・ヤングの著書『History of Surfing』にも記されているが、映画『モーニングオブジアース』の監督アルビー・ファルゾンとその仲間が、同名の映画を撮影中に、その波を発見したことがきっかけとなった。
本格的に…と補足したのは、すでにバリではクタビーチなどでノマド的なサーファーによってサーフィンは行われていたと思われるからだ。つまり「誰がバリで最初に…?」という点についてこだわれば、それはアルビーたちではない。最初にバリでサーフした人となると、1930年代にクタでホテルを開業したロバート・コークという人物がアライア(古代ハワイアン式サーフボード)式のサーフボードで波に乗ったという証言がある。バリのサーフレジェンド、マデ・スイトラのお父さんがそのコーク氏のサーフィンを目撃している。話によると、コーク氏はボディサーフィンのように腹ばいで波に乗ったようだ。。その後、太平洋戦争によってホテルは廃業し、海岸に捨てられていたそのアライアを、スイトラのお父さんが拾って大切に保管していた。(AUSのDeep誌に記事が写真入りで掲載された)
しかし、バリがサーフィンデスティネーションとして本格的に始動したのは、やはりウルワツの発見であり、アルビー・ファルゾンの功績である。しかも彼はそのヴァージンウェイブがサーフされる歴史的瞬間をフィルムに収め、映画として公開した。ファルゾンはバリという地名を映画では公表しなかったが、噂は瞬く間に世界のサーフィン界に広がり、ウルワツは新たなるサーフデスティネーションとなった。
その映画『Morning of the Earth』の50周年を記念して出版された写真集にファルゾンが初めてバリを訪れた経緯やウルワツの波を発見したときのことをこう書いている。
『モーニングオブジアース』アルバート・ファルゾンより(抄訳)
チャプターII バリ
デビッド・エフリック(映画プロデューサー)はアジアに興味津々で数ヶ月をかけてカトマンズのヒッピートレイルやその他のアジアの地域を旅してきた。彼はある日ラッセル・ヒュー(サーファー)と知り合う。彼もまたアジアに大きな可能性を感じていた。ラッセルはアフガニスタンからオーストラリアへ戻る途中にバリを訪れていた。デビッドは、彼からバリがまだ知られていないサーファーズパラダイスだということを聞き、バリこそが映画のために撮影すべき場所だと確信する。
当時は70年代の初頭で、サーファーで写真家でもあった私はハワイ諸島が持つ南国の魅力にとりつかれていた。アジアは私の意識から遠くかけ離れていて、そこへサーフしに行くことを考えることすらなかった。ところが、突然のように私たちはバリに向かう飛行機に乗り込み、ハワイとは逆の方向へと向かうことになった。何が起きるのか期待さえしていなかった。
それは驚くべき冒険のはじまりだった。飛行機から初めて降りたときのあの蒸し暑さはいまも忘れない。そして独特な香りを含んだ空気、穏やかな貿易風と寛容な人々の出迎え、それはまるで異なる世界へ迷い込んだような印象であった。しかしこの地の居心地の良さで、すぐに私はハワイのことを忘れてしまった。
波がフラットになって数日後、私たちは遠くの岬にあるウルワツの寺院へ向かってみようということになった。崖の上を歩いていくと海岸線に沿って波がブレイクしているのが見えた。山道が終わっているところから崖がコーナーとなって2~3フィートの波がパーフェクトに割れているのが見えた。そこは今ではパタンパタンという名で知られているスポットだ。数日後、波が上がってから再びそこへ行ってみると海の様相が変わっていた。波は十分にオーバーヘッド以上はあり、そのラインは水平線からやってきていた。パーフェクトだった。
ステファンとラスティーがパドルアウトするとその噂が近くの村に伝わった。バリニーズたちは海に恐れを抱いていて、押し寄せる波からは遠ざかった暮らしを送っていた。村人たちはそれまでサーフィンを見たことがなく、サーフィンは彼らの常識を超え、想像すらできないできごとだった。彼らは崖の上から歓声を上げた。サーファーたちが波をドロップするたびに興奮する彼らを見るのは、すごくおもしろかった。
世界のサーフィン界を魅了したカバーショット
「バリはグーフィー天国」
ウルワツの発見からはじまったインドネシアのサーフィンだが、当初はグーフィー天国と揶揄されることが多かった。レフトハンダーばかりだという評判が先行して、「良いレギュラー(ライトハンダー)が無い」と批判され続けた。サヌールエリアやレンボーガン島には良質のライトハンダーが存在したが、ウルワツ、パタンそしてスマトラのGランドというイメージが強かったからだ。当時は、クラマスはまだ知られざるライトハンダーだった。とにかくハワイに代わる新しいサーフデスティネーションとなったバリだが、レギュラーフッターにはいささか不満が残った。
さて、バリに波があるのなら、他の島にもあるだろう。と考えるのは誰も同じ。しかし開発途上国では、飛行機を降りてハーツでレンタカーを借りて出かける。というようなことは不可能で、さまざまな事象がサーファーの前に立ちはだかった。しかしバージンウェイブを求めるサーファーの情熱がその困難を乗り越えていく、やがてサーファーの口コミによってインドネシアの密林の奥にパーフェクトなライトハンダーが存在するという噂が流れ出した。
そしてハワイに住むサーフフォトグラファー、カーク・アエーダーが撮った写真と記事が米サーファー誌に掲載された。記事の題名は”INDONESIA”でニアス島のラグンディ湾のライトハンダーが、地名は公表されなかったが、初めて世界のサーフィン界に紹介された。
その号のカバーショット、オーストラリアのサーファー、ソートン・ファレンダーのスタンディングバレルは世界中のサーファーを魅了した。(ちなみにカバーショットとなったソートンのウォーターショットはニアスではなくバリのハーフウェイ(ビーチブレイク)で撮影されている)
そして2ページの見開きで登場したのがニアス島のインジケーターの波。小舟に乗る地元の漁師と背の高いパームツリーが背後にあるだけで、サーファーはどこにも写ってはいなかった。その写真から醸し出されるミステリアスな雰囲気は「やっぱりライトハンダー(波)はある」と納得させるには十分だった。
ニアス島の波は、以前に当コラムで紹介したピーター・トロイによって早い時期にすでに発見されていて、そのマル秘情報はオーストラリアのアンダーグラウンドなサーファーの間に浸透していった。やがてステファン・スポルディングの名作『Bali High』にニアスの波が「どこかのパラダイス」という表現で紹介された。日本でもサーフィン誌によって遠征が計画されて、ジャック・マッコイの撮影に合わせてニアス島へ訪れて大きな話題を呼んだ。
米サーファー誌に記事を寄稿したカーク・アエーダーは10年後にもニアスを訪れて、最上の波に遭遇する。じつは最初の”INDONESIA”の記事ときには、天候に恵まれなかったのかアエーダーはあまり良い写真を残してはいなかった。再訪はリベンジの意味もあった。このトリップにはソートン・ファレンダーとムンガ・バリーが同行している。
こうしてインドネシアの秘宝(波)がサーファーによって開拓されてメディアに登場し、それに魅了された世界中のサーファーが訪れるようになる。数々のサーフセッションが繰り広げられ、やがてボートトリップというスタイルが一般的になり無人島へもアクセスが可能になっていき現在へと続いている。
(李リョウ)