『15フィートのホノルアでオージーたちとサーフした翌日の朝、ナット・ヤングがわたしのテーブルにやってきてこう言ったんだ。「ミスターブルーワー、あなたのボードに乗ってみたい」そこでわたしはこう言った。「チームのためにボードを作っているから1~2週間はかかるね」すると彼は驚き、足を踏み鳴らして叫んだ。「わたしはナット・ヤングだよ!、わたしはナット・ヤングだよ!、わたしはナット・ヤングだよ!」だからわたしは彼の手を握って「ご機嫌はいかがですか、ナット君」とあいさつをした。同じテーブルにいたリノとバリー・カナイアプニは、エゴをむき出したハオレ(白人)に対して皮肉たっぷりに笑っていたな』ディック・ブルーワー
”The Life and Work of Richard Brewer”by Drew Kampion より
ブルーワーは、ミニガンの世代(ショートボード革命)においてハワイでは中心的な存在だった。オーストラリアで起こったマクタビッシュのヴィーボトムは、大変革ではあったがすぐにフェードアウトした。しかしブルーワーの洗練されたシェープは、卓越した才能を持つ若いサーファーたちに支持されて、ポケットロケットというデザインの正当性が証明された。そしてサーフボードの本流となった。
サーフィンの世界で圧倒的なサーフボードビルダーとなったブルーワーだが、さまざまなトラブルが彼につきまとった。その原因は、彼の尊大な態度だと言う者もいれば、ドラッグが原因だと言う者も、またその両方だと言う者もいた。
「昔、JリドルがRB(ブルーワー)のところにやってきた」とジェリー・ロペスは、ある事件を思い出した。「彼のボードが完成していて、値段を聞いたんだ。するとブルーワーは「100ドル」と言った。リドルは驚いて「100ドル!、俺はチームライダーだよ」すると彼は「そうだったか、じゃあ200ドルだ」と大真面目に答えたんだぜ」
さらにこんなエピソードもあった。ジェフ・ハックマンが、ブルーワーのシェープルームへ新しいガンを持ってやってきた。彼はテールが少し引きずっているようなフィーリングがすると指摘すると、ブルーワーはノコギリを持ち出していきなりテールから12インチを切り落とし、ハックマンの方を向いてこう告げたという。「どうだ、これでいいのか?」
ラハイナ・サーフデザインは68年に閉業となり、カリフォリニアのプラスチック・ファンタスティックと短い契約を結んだこともあった。69年になるとRBとリノ・アベリラはゴードンアンドスミスの別ブランド、インターアイランド・サーフボードと関わるようになる。そこでブルーワーはノーズが極端にキックしたフリップティップを開発した。1969年のハンティントンでのコンテストにリノ・アベリラがそれに乗って出場した。しかしオーナーのラリー・ゴードンと経費のことで交渉が折り合わず、ゴードンアンドスミスとの関係は終わった。
その後、さまざまなボードメーカーに雇われてシェイパーとしての地位を確立したブルーワーは、カウアイ島に引きこもり、それからの10年間は事実上の隠遁生活を送りながら、サーフボードの開発を続けていくことになる。
しかし、60年代後半から70年代前半にかけて、ディック・ブルーワーのチームにはそうそうたるサーファーの名前が連なっていた。その名を少し挙げると、デビッド・ヌヒワ、リノ・アベリラ、ジェリー・ロペス、ジョック・サザーランド、ジェフ・ハクマン、オウル・チャップマン、バリー・カナイアプニ、サム・ホークそしてマイケル・ホーなどがいた。さらに、彼のデザイン理論は多くのサーフボードシェーパーへ影響を与えたが、その中にはジェリー・ロペス、リノ・アベリラ、オウル・チャップマン、テリー・フィッツジェラルドそしてマーク・リチャードなどがいた。
シェープの手ほどきをブルーワーから直接受けたビルダーの一人には、マーク・リチャードがいる。彼は後にツインフィン を開発して世界タイトルを獲得するが、その開発時にブルーワーのアドバイスを生かして、パワーある波にも対応できるツインフィンを誕生させた。
70年代に、あるサーフィン誌のインタビューを受けたブルーワーは、サーフボードの開発について「市場の数年先を行っている」と述べ「わたしがシェープを止めれば、サーフボードの進化も止まってしまう」と答えている。
ちなみに、ブルーワーのサーフボードデザインにおける最大の功績は、発明ではなくデザインの洗練である。彼がシェープするガンは、ボードデザインを統合し、磨き上げたものであり、サーフボードのストラディバリウスと評された。
(ディック・ブルーワーと彼の作品、時を経ても普遍的な輝きを放っている)
カウアイに住んでいたころ、ブルーワーはジェリー・ロペスをハナペペの店のシェープルームに呼び寄せ、一緒に仕事をしながらシェープの技術を教えた。「ブルーワーからはプレーナーの技術を学び、今でもそのプレーナーを使っているんだ」とロペスはブルーワーとの関係を認めている。
ロペスはハナペペで数ヶ月シェープをブルーワーから学び、ホノルルのサーフラインへ戻ってシェーパーとなり、やがてジャック・シプレーと組んで「ライトニングボルト」を立ち上げることになる。(ブルーワーがライトニングボルトに参加しなかったことについては諸説あり)
この同時期にブルーワーもディック・ブルーワーというブランドを立ち上げることになった。それによりサーフィンの世界で最も有名なサーフボードディケールの1つが誕生する。しかしその誕生のきっかけはあまりにシンプルであった。
「ハンティントンのピアのレストランで朝食を食べていると、若い女性サーファーと出会ったんだ。彼女はロングビーチ校でアートを専攻しているという。そこでわたしは「50ドルでこのマークを作ってくれないかと頼んだ。プルメリアのレイを紙に描いてディック・ブルーワー・サーフボードとその中に書いた。10回ほど描きなおして、そのなかのベストを彼女に渡した。よく朝、同じレストランに彼女がやってきて、綺麗に仕上げたマークを見せてくれた。彼女の名前はジェリコ・ポプラー(70年代に活躍した女性サーファー)、彼女がわたしのロゴを描いたんだよ」
サーフィンの世界では、サーフボードビジネスが大きく成長していくにつれて、さまざまな混乱や争いが同時に巻き起こった。ブルーワーもホノルルに共同経営者として店をオープンさせたが、ブルーワーの商標権のトラブルに巻き込まれてしまい、自分のロゴを自分自身が使えないという法的なトラブルにも見舞われた。しかしサーフボードハワイのときの法廷闘争にうんざりしていたブルーワーは、そのトラブルに関与しない道を選んだ。「意に沿わないことが起きればそこから立ち去る。それがわたしの生き方だ」
1975年、ブルーワーにさらなる不幸が襲いかかった。マウイで車を運転中に事故に遭い瀕死の重傷を負ってしまった。そのときに2度目の妻との間に生まれた男の子を失っている。ブルーワー自身も30カ所も骨折し、片足を切断される寸前まで追い込まれた。どうにか切断は免れたが、大量に投与された麻酔で麻薬中毒に陥ってしまう。
人生のどん底に突き落とされたブルーワーだったが、1985年にカウアイで出会ったシェリーという女性に彼は助けられる。やがて二人は結婚してカウアイに住み、サーフボード作りと不動産ビジネスを営む。ハナレイの丘にある自宅には専用のシェーピングルームがあり、世界中からの注文に応じてサーフボードが作られていった。その中にはレイアード・ハミルトンがタヒチのチョプーでサーフしたミレニアムウェイブのボードも含まれている。
2004年、『サーフィン』誌は彼を歴代のベストシェイパー10人の一人に選出した。
2008年、ブルーワーがデザインしたニッケルメッキのトウインボードが、サザビーズのオークションで22万ドル(約2900万円)で落札。
2012年、ハンティントンビーチのサーフィン・ウォーク・オブ・フェイムに選出された。
2022年5月29日(日本時間)、シェリー・ブルーワーより、SNSを通じてあるメッセージが世界に配信された。
ディック・ブルーワーは、60年代より彼のサーフボードと共に微笑みを人々へ与えてきましたが、今朝、自宅にて妻である私や家族、そして友人たちに見守られながら静かに息を引きとりました。アロハ・オエ、ディック・ブルーワー
付記
80年代初頭、カリフォルニアに住むブルーワーの甥、マイケルとチャック・ブリューワーが、ブルーワーや家族と共にブルーワー・プロダクツに参加し、フィンボックスとRBデザインのフィンを製造するようになった。
1987年にブルーワー・チャールズ・シニアが亡くなった後、ブルーワー・プロダクツはブルーワー・ブラザーズと法人化され、プラスチック製のリーシュプラグの製造を行うようになった。
マイケル・ブルーワーによると、兄弟はディックの依頼で、ディック・ブルーワー・サーフボードの名前とロゴを使った違法な製品を調査して阻止し、さらに法的権利を確立するために動き出した。この調査がきっかけで、兄弟はディックの代理人となってサーフボードや衣料品のライセンス契約を結ぶことになった。
マイケル・ブルーワーは、チャックや3番目の弟ランスと共に、ディック・ブルーワー・サーフボード社に絡む複雑な国際法の網を解明し、「家名を回復する」ために情熱を傾け、叔父であるリチャードに安定した収入をもたらせるように努力していると語った。
(李リョウ)