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32年前のつのだゆきF+編集長-1988年新島、シェーン・ホランと

F+(エフプラス)

みんなが気になるのはこの先の業界どうなるのか、とかだけど、そんなのわからんよね、誰にも。何しろたかが風邪、されど風邪で、国中が学級閉鎖的なことになるなんて、想像もつかない出来事だから。
さてさて、すごい写真でゴザイマス。蔵出し~。

基本的に過去は振り返らないタイプなので、どうでもいいんですけど、やることないから振り返ってみようかな。これは私の初めてのワールドツアー選手らとのふれあい時代かな、と思う。これより前数年は、NSA、JPSAの国内試合をフルフォローしていた。全国のサーフショップを回ったり、読者スナップしたり、とにかく地道に足元を固めるファインのお姉さん時代(笑)。

ツアーに出てすぐにフランスで髪の毛を切ったので、髪の長い女だったキャリア序盤、1988年の新島、本村にあった民宿きちろんでのワンショット。当時写真はまだとっていなかったので、この写真はハワイのカメラマンのGORDINHO(ゴルディーニョ、日本語で確か太っちょって意味のポルトガル語、本名ポール・コーヘン)の作品。今から32年前の6月、しぇ~~~。
左から、私、ナイトウサワコさん、シェーン・ホラン。

何を何語で聞いてるんだろ。当時はまだ全然英語がダメだったので、中学生レベルの片言の英語でつまらないこと聞いてるんだと思う。つっか、このスタンスというか、選手との距離感というか、民宿の布団に座ってって、う~ん、すごい仕事ぶり。
手にしているシステム手帳が時代を物語るね。この手帳は取材の必需品でした。ビフォーインターネット時代。

小生意気ないやな女の顔だな、と思う。可愛いけど(笑)。バリバリサーフィンしてた頃ですね。着ているTシャツは鵠沼のパイナップルベティーズのものかと思う。これは今でも全然可愛く着れるデザインだね。あの当時はこうした可愛いものが湘南発のサーフシーンにたくさん出ていて、今みたいに世界中で画一的なマーケティングをするような時代ではなかったから、日本では日本なりのサーフカルチャーが生育していた。

隣にちょこんと座っているナイトウさんはこの年の日之出出版の新入社員かなんかで、ファインのサーフ担当になったばかりの頃だと思う。彼女はもともとダイビングだったかなんかの得意な子で、しばらくしてマリン企画に行き、その後たぶん結婚したのかなぁ、わからないけど、懐かしい顔だ。
おそらくこの頃は私も離婚したばかりかと思う。つっかそれも結婚したばかりなんですが(笑)。鵠沼海岸在住時代。

若きブロンズドオージーズ、シェーン・ホランはカメラマンのポールさんと懇意だったし、日本人大好きだったので退屈なインタビューに付き合ってくれてたんだろう。彼はのちに、たしかボディボードのワールドチャンピオンだったブラジル人のステファニー・ピーターソンと結婚してパパになったが、のちに離婚、その後再婚してオーストラリアでサーフィンスクールやってたと思うけど、もう“コロナは危険”な高齢者年齢の記憶なので、明確ではない。バートン・リンチも初婚はブラジルのボディボーダーだったと思うので、ごっちゃになってるかな。

とにかく80年代後半から90年代前半のハワイはボディボーダーとサーファーの思いが渦巻くグチャグチャワールドで、ボディボードコンペシーンも今よりだいぶハイレベルで競技人口も多かった。ま、プロサーファーと国際結婚する、っていうのは当時の女子BBガールにはステータスだったように思う。
ま、シェーンに子供がいるのは確か。生まれたばかりの頃にこの目で見てるので。
とにかくすべてがビフォーインターネットなので、今いろいろ検索してもそんなに古いゴシップ話は出てこない。いろいろ秘密にできた古き良き時代。

F+編集長つのだゆき

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