波情報BCMの会員特典「BCM x F+ 2022年カレンダー」では2001年から2021年までのワールドチャンピオンを紹介。各月の採用写真について解説するF+つのだゆき編集長オリジナルコラム企画を、THE SURF NEWSでは特別に翌月10日頃に公開します。今回は2月を飾った2001年のワールドチャンピオンCJホブグッドについて。
≫「BCM x F+ 2022年カレンダー」オリジナルコラム一覧
F+(エフプラス)
クリフトン・ジェイムス・ホブグッド。CJホブグッドは2001年のワールドタイトルホルダーだ。弟のダミアン・ホブグッドとは双子のCT選手。ケリーと同じくフロリダ出身のサーファーで、クオリファイ前も若きフリーサーファーとして注目されていた。CJは1999年のクオリファイ、ダミアンは1年後の2000年にクオリファイ。それまで兄弟CT選手はいたけどツインズは初だし、このふたりは本当によく似ていて、スタンスも同じグーフィー、スポンサーもデビュー当時は同じラスティと見分けがつかず、カメラマン泣かせだった。
今でこそ見分けがつくけど、当時は目の前で見てもふたりそろっていなければわからなかったように思う。アメリカのカメラマンは彼らをよく知っていたので、見分け方のポイントとかも聞いたけど、う~ん、……だと思う、のレベルでしかわからなかったなぁ。2002年のフィジーでこのツインズとそれぞれのGFのたちの計4人が私のルームメイトだった。同じ家にステイしていても見分けられず、一緒にいるGFがどっちかで見分けていた、という大変失礼な過去がある。
このサーフィン写真は2002年のフィジー、クラウドブレイクでのもの。
まだ世の中はフィルムカメラ時代。このヴィヴィッドな色はフジクロームのベルビア、シャッタースピードも早そうだから増感1とかかな……って実に専門的な話だけど、今でこそ、オートフォーカス、デジタルカメラの発達、デジタルデータ読み書き速度のアップとかで、ある意味機材さえあれば誰でもサーフィン写真が簡単に撮影できるようになった。しかも昔のように大砲のような望遠、600ミリレンズとかはまるでいらないので、入手価格もお手頃。写真のクオリティは撮影した素材をどういじるかのフォトショップ勝負的な部分も大きいので、残された要素はいつどこで誰を撮るか、だけかもしれない。しかしこの当時はまだまだ、露出計だの増感減感だの、シャッタースピードと被写界深度のせめぎあいだの、今となってはあまり知らなくても大丈夫な知識が必要だった。
カメラマンは専門技術職という感じはどんどん薄れている。よかったら明日からあなたもどうぞ。恐ろしいぐらい稼げない仕事です。特にサーフィンカメラマンは(笑)。
それにしても、そういうアナログ時代のこのピントのきかたはスゲーな、とつい選んでしまった1枚。波のサイズは大したことないけど、バレルの中のCJに具合悪くなりそうなほどピントがバッチリきてる。ピンパキ(と昔は言っていました)。
もう1枚の縦位置のピンパキは同じフィジーだけど2005年、初期のデジタル一眼レフのもの。こうしてみると解像力や水のディテールの表現力に大きな差は感じられないし、逆にデジタル画像のほうがすごいかな、とも思う。しかもまだわずか600万画素とかの時代だ。
それでも当時の国内外の巨匠と言われるフィルム時代からのサーフィンカメラマンは、表現力がないだの、奥行きの立体感に欠けるだの、発色が絵葉書のようで安っぽいだの、いかに既存のアナログ、ポジフィルムが優れているかを主張したし、海外のカメラマンに比べてより保守的だった日本のサーフィンカメラマンたちは、デジタル化がだいぶ遅かったように思う。
私はアメリカの友人のカメラマンがいち早くデジタルに切り替えたので、借りて撮影してみて、誰が何と言おうと、必ず近い将来フィルムが消え、デジタルになると思ったので、1日でも早く慣れようとすぐに買い替えた。
何しろフィルムを持って旅をしなくていいし、撮影した画像はその場で確認できる。増感減感はパソコン上で自由自在、それはまさに当時のカメラマンにとって夢のまた夢だった。まぁ、荷物からフィルムが減った分、現像編集のためのノートパソコンが増えたけど。
CJがタイトルを獲得した2001年のツアーというのは、シーズン中の9月にアメリカで同時多発テロが起きた年だ。だからこのコロナ禍の数年、その時の混乱をよく思い返す。
私はまさにその時アメリカにいて、ニューヨークとは対岸のカリフォルニアだったけど足止めを食らい、大変な思いをした。テロのあとに予定されていたのはポルトガルのフィゲイラプロ、フランスのクイックシルバープロ、スペインのビラボンプロと3試合続くヨーロッパレッグで、そのあとハワイのサンセットのリップカールカップが最終戦となるはずだった。
航空混乱の中とんでもない苦労をして、10日ぐらいかけてようやくなんとかポルトガルの友人宅にたどり着いた翌日、ヨーロッパレッグ3試合キャンセルの知らせを聞いた。
最終戦のハワイは予定通り行われ、そこでCJがタイトルを決めたのだが、テロがなくてヨーロッパレッグが行われていたら、結果は違ったかもしれない。おそらく一番強くそう感じているのはCJ本人で、いまだに何となくワールドタイトルを取ったけど取ってないような感じ、と感じているようだ。
オープニングイベントのオーストラリアで5位、タヒチで2位、ブラジルで3位、南アフリカで9位というコンスタントな成績で前半タイトル争いトップに立ち、ヨーロッパレッグへ入るはずだった。最終戦のサンセットはラウンド2で敗れたが、ほかのタイトルコンテンダーもCJを逆転できなかったので、そのまま2001年チャンピオンに輝いた。この年の女子のタイトルはレイン・ビーチェリー(4連覇)。
CJがタイトル争いのトップに立ったのは誰もがわかっていたが、優勝もなく、ヨーロッパレッグでその順位は入れ替わるものと大方のツアーウォッチャーは考えていた。当時からこのヨーロッパレッグ3試合というのは、どの年もタイトル争いの佳境となるイベントだったからだ。しかし予想に反し、また同時多発テロという偶然も重なり、前半のコンスタントな成績がそのまま結果に反映された。タイトルレースがいかにコンスタントさを要求されるかの見本のような年だった。
この年、98年の6度目のタイトル以降セミリタイアをしていたケリーが2002年のツアー復帰をアナウンスした。年間ワイルドカードを手にし、2002シーズンに復帰することになる。そしてこのカレンダーで3月採用の2002年のワールドチャンピオン、アンディ・アイアンズとの2強時代が始まる。