サーフィンは今やオリンピックの正式種目にもなり、人種や性別を問わず世界中で楽しまれている。とは言え、特に欧米諸国では人口比に対して、サーファーは圧倒的に白人男性が多いことは間違いない。いつから、なぜこうなったのだろうか?
Redbullの動画シリーズ『In Plain Sight』第1弾でセレマ・マサケラが人種から見たサーフィンの歴史を紹介し、白人中心のスポーツになった理由を紐解く。
アフリカンアメリカンから見た差別の現状
南アフリカとハイチにルーツを持つアメリカ人のセレマ・マサケラは13年間ESPNでX-Gamesのホストを担当した横乗りスポーツ界の重鎮。自身も黒人としてたびたび差別に直面して、近年ではBLM運動を機にサーフィンにおける人種差別問題などを取り上げている。本作品ではアニメーションに合わせたナレーションを担当している。
「最近、“サーフィンより白人主義のスポーツは他にあるのか?”と聞かれた。これまで何度も同じように尋ねられたことがあるけど、この質問に慣れることはない。初めて聞かれた時と同じように今も心が痛む…」
ーセレマ・マサケラ
サーフィンのルーツはアフリカのガーナにも
波に乗って楽しむ行為は古代から世界各地で行われていた。中国やペルーでも独自に発展し、西アフリカのガーナでも1640年からの記録があるそうだ。サーフィンに関する具体的な記述は1779年、ハワイを訪れたキャプテンクックの日記が最初だっただろう。
クックの日誌には、20-30人のハワイアンが波乗りを楽しむ様子が記録されていて、サーフボードを巧みに操り、波を潜って沖に出てはまた波に乗って楽しむ記述が残されている。当然、その行為はクック到来のはるか前から行われていて、サーフィンが娯楽として定着したのはハワイが世界最初だったのかもしれない。高度な知識と技術を持つカフナがアライアのブレッシングや波を呼ぶチャンティング(お経のようなもの)を行っていて、波乗りの伝説は歌や物語を介して継承されてきた。
サーフィンのホワイトウォッシュ
ヨーロッパやアメリカの植民地が太平洋中に広まると、先住民はプランテーションなどの労働者として採用され、サーフィンは怠慢な行為として、また仕事の妨げになるため100年近くの間事実上禁止されてしまった。しかしそれでもこっそり海に入り、波乗りの伝統を引き継いだ者がいた。
世論が大きく変わったのは1912年。デューク・カハナモクがオリンピックで新しい泳法「クロール」を披露して、一躍サーフィンがハワイの文化として話題になり世界中に広まり始めた。
しかし、戦後にサーフィン文化の最前線がマリブに移り、ハリウッド映画などがヒットした影響で、カリフォルニアの海岸沿いは上層階級の白人の遊び場と化してきた。ブロンズヘアの白人がサーフィンをする光景が不動産屋などの広告に使われ、サーフィン=白人のイメージが作られた。ハワイの伝統であるサーフィンを白人で置き換える「ホワイトウォッシュ」が起きたのだ。
その結果、黒人が沿岸の土地を買おうとしてもローンが組めない、現金で買おうとしても断れるなど、組織的に排除されてしまったのだった。
続く有色人種の苦労
当時はジム・クロウ法により海岸の利用も制限され、南カリフォルニアで黒人の使用が認められていたのはたったの2か所。黒人がサーフィンをするなんてとんでもない話だった。それでもめげずにマリブまで往復24マイル(約40キロ)パドルしてサーフィン続けたニック・ガバルドンの話が有名だ。
サーフィンはすっかり白人のスポーツとして定着したため、人種差別が法律で禁止されてからも、黒人や他の有色人種も海に入ろうとも横目で見られ、時にはれっきとした差別を受け続けた。
1975に設立された「Black Surfing Association」や、環境保護と平等を推進する「#1planetonepeople」のような活動のおかげで、少しずつではあるが有色人種や女性、またLGBTQ+など、様々なバックグラウンドの人々がサーフィン社会に受け入れられる時代になってきている。
このようにしてサーフィンの歴史を見ると、白人中心のスポーツになったのはほんの60年前の話。まだまだ差別はなくならないけれど、歴史を知ることでその滑稽さに気づき、一つオープンなサーフィン社会に近づいてくれることを期待したい。
ケン・ロウズ